唐突に背中へと寄りかかる体温を感じて、鴆は口元を緩めた。
 まだ宵の口だが、立秋を過ぎれば暮れるのは目に見えて早くなる。訪いがあるとすれば、頃合いだった。
「リクオ?」
「邪魔したか?」
 殊勝な言葉を口にしつつも、情人はさして気にしていない様子で背中をもたせかけてくる。子どもっぽい所作に笑いを噛み殺しながら、鴆は手元の書物を閉じた。
「いや、もう今日の仕事は仕舞いだ」
「そうか」
 気配を絶ったリクオが、悪戯半分に薬鴆堂の座敷に上がり込んでいたのは初めてではない。今日もそんな気まぐれだろうと思って顔を巡らせば、膝立ちになったリクオの腕が首へとまわされた。
 そのまま、リクオの顔が間近に迫る。
 刹那見とれ、あ、と思ったときには口付けられていた。
 柔らかな唇が鴆のそれに押し当てられ、ややあって遠慮がちに唇を舐められる。そこまで誘われて、何もしないでいられるはずもない。
 舌を絡めればリクオも応じ、しばし、二人で舌先の交情に夢中になる。
 甘い吐息を奪って、もっと欲しいと項を引き寄せた。
 幾夜を共にしても、幾度唇を重ねても、そのたびに胸を掴まれて、苦しいほどの愛しさに息ができない。
 届けばいいと思い、けれど、知らなくていいとも思う。
 ただ思うまま凛と立ってほしいと望み、一方で、この腕のなかで自分だけのために啼かせたいと願う。
 名残を惜しみながらも唇を離せば、息を乱したリクオが物言いたげに瞬いた。
「どうした?」
 促しても素知らぬ顔で頭を振り、けれど呑み込んだ言葉は確かにそこにわだかまっている。
「呑もうぜ」
 笑んだ唇は朱く濡れて、ひどく扇情的だ。引き留めそうになる腕を堪え、リクオが立った先を見れば、広縁には酒瓶が置きっぱなしになっていた。
 後を追って受け取れば、鴆がとりわけ好きな酒だ。
「どうしたんだ今日は?」
 本家とはいえ、そうそう転がっている酒でもない。尋ねるとリクオは目を瞠り、すぐに苦笑を浮かべた。
「何だよ、リクオ」
「何でもねぇよ」
 楽しげに目を細めて、リクオは笑う。
「ただの祝いだ。おめえは座ってろ」
「はぁ、祝い?」
 聞き返す間に無理矢理座らされ、勝手知ったるリクオは廊下へと消えた。取り残されれば、否応なく祝いの意味を考えさせられる。今日は自分が生まれた日付で、人の子はそれを祝うものだと鴆が思い出したのは、酒器と肴を持ったリクオが戻ってくる間際のことだ。
「そんなことなら、さっさと言ってくれりゃあいいだろうが」
 腰を下ろしたリクオに文句を言うと、相手は悪戯っぽい笑みで応じる。
「いいじゃねえか、祝いてぇのはオレなんだから」
「そういうもんじゃあ、ねぇ気がするんだが」
 首を傾げると、リクオは笑んだまま盃を差し出した。
 受け取って酒を注いでもらえば、夏の夜風がリクオの髪を揺らす。
「来年も再来年も、」
 自分の盃を満たしながら、リクオは独り言のように口を開いた。
「お前が忘れてても、その先もずっと毎年、」
 薬鴆堂を囲む木々の梢が、一斉にざわめいた。
「とびきりの酒で祝ってやる」
 真っ直ぐに鴆を見据えて、リクオが微笑む。
 幾度こうして向かい合っても、そのたびに胸を掴まれて、苦しいほどの愛しさに息ができない。
 届けばいいと思い、けれど、知らなくていいとも思う。
 希うのはただ、リクオに笑っていてほしいと、それだけだ。
「嬉しいねぇ」
 酒が喉を滑り落ち、広がった芳香が酩酊を誘う。けれどどれほど薫り高い酒も、目の前の情人がもたらす酔いには比ぶべくもない。
「何だよ、急ににやにやして」
「ひでえな。そんなこと言われて、喜ぶなっつう方が無理だろうが」
 肩を揺らして笑えば、リクオはふっと真面目な顔になった。
「そうか?」
 何故そんなことを言うのかは、わからなかったけれど。
「そうだよ」
 頤に指をかけ、顔を上げさせる。
 覗き込んだ眸に過ぎった艶っぽい光が、鴆を呼んだ。
「目ェ、つぶれよ」
 リクオがそうしたかどうかは、自身が瞼を落としたからわからない。
 舌先に、酒の味を感じる。
 それでも、何より鴆を酔わせるのは。
 思うさまその吐息を味わおうと、鴆はリクオへの口付けを深くした。熱を灯し合うよう舌を絡め合い、ときに互いをきつく吸う。
 夜風が梢を揺らして騒いでいる。
 けれどもう、息を乱した二人の耳には何も聞こえてはいなかった。
                                        (了。2011.08.12.)



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