「見事なもんだな」
 耳に馴染んだ声に振り向けば、歩み寄ってきた鴆が桜を見上げていた。
「久しぶりだ、本家の桜は。……立派な木だった覚えはあるが、これほどだったか」
 感嘆を露わに呟いて一歩を踏み出し、枝先の花へと手を伸ばす。
 先刻から、鴆がいることには気付いていた。少し離れた池の縁に佇む気配に安心して、つい、時を過ごしてしまったかもしれない。ただ黙って待っていてくれた鴆が有り難かった。
 時に叱咤し、時に背を守り、そして変わることなく信を預けてくれる鴆がいるから、自分はいまここに立っているのだとリクオは思う。
 鴆と再会し、義兄弟の契りを交わしたのは昨年のこと。庭の枝垂れ桜は散った後だった。もう幾歳もともにいるような気がするけれど、あれから、まだ季節は一巡りしただけだ。
 その横顔を黙って見つめれば、振り向いた鴆と視線が合う。
「夜桜もいいが、冷えてきたぜ。そろそろ入っちゃあどうだ」
「そうだな、風も出てきたか」
 自身の身体も強くはないくせに、どうにもこの義兄弟は人の心配ばかりをする。つい口元を緩めれば、怪訝そうに鴆が瞬いた。
「なんだ、楽しそうだな」
「楽しいさ」
 問われて、自ずと笑みが深くなる。いつだってリクオの気持ちを揺さぶるのは鴆の存在だというのに、しばしば、この男はひどく鈍感だ。
 素直に伝えてやるつもりなどないが、時折もどかしくて仕方ない。
「花見をしながらお前と呑めるなんて、楽しくないわけがないだろう?」
「違ぇねえ」
 軽口を返せば、鴆も嬉しげに破顔した。
「とは言え、花よりおめえに見惚れそうだがな」
「はあ?」
「さっきの総会も、惚れ惚れするような三代目だったぜ」
 どこか得意気に、鴆が眸を細める。
 契りを交わした当夜、鴆はリクオの襲名を望んだ。正確に言えば、鴆はそれ以前からリクオを三代目にと主張していた数少ない一人ではあったけれど、再会までの数年間、行き来は途絶えていたのだ。
 思えばあの夜、鴆を助けたいと必死になったリクオが数年の空白を超えて覚醒したことこそ、すべての始まりだったのだろう。
 鴆はリクオの晴れ姿を望み、盃を交わし、そしてリクオは鴆へとひとつの約束をした。
 夏を迎え、京都を経て、鴆の望みは叶えられる。
 それならば、リクオの約束は。
「やっぱオレの目に狂いはなかったな」
 悦に入る鴆に苦笑して、リクオは桜へと向き直った。鴆がらしいと言うならそうなのかもしれないが、自分では思ったままに振る舞っているに過ぎない。
 三代目であることに興味はなかった。
 ただ、三代目として為したいことがあるだけだ。
 まだ春にはなりきらない冷たい風が吹いて、枝を揺らす。満開の花をつけた枝が震えるようにざわめいて、その香が強くなる。夜のなか、風を受けた薄紅色の花弁は舞い散りながら波紋を描き、眸を眩ませた。
「この桜は、じじいが京都から持ってきて植えたって話だがな、この世で二番目に美しいもんだって常々言ってやがるぜ」
「へえ、」
 リクオの言葉に、鴆も再度、桜に目をやる。
「姫が一番、桜が二番、か」
 初代の嫁取りの話は、若い者であれ知らぬ者はいない。納得したふうに頷いて、鴆は面白そうに目元を綻ばせた。
「総大将らしいな。……けど、姫と一緒に来たってんなら、少なくとも四百歳を越えるのか、この桜は」
「ああ、そういうことになるか。……それが?」
 梢を見上げ、鴆は言葉を選ぶよう、一呼吸置いた。
「枝垂れ桜の樹の寿命は、三百年くらいが普通だ。だが、この樹は全然、そんなふうには見えねえと思ってな」
「樹にも寿命があるのか」
「まあな。この樹は、この庭に植わってる時点で普通じゃねえのかもしれねえが」
 心配させまいとするのか、振り向いて鴆は笑った。
「それに、人の世にあって千年や二千年生きてる桜もなかにはある。寿命の定めなんざ、宛てにならねえとも言えるのさ」
「……千年、か」
 鴆の言葉通り、生命力に溢れた満開の桜をリクオは見やった。物心ついたときからこの樹はここにあって、毎年変わらず、見事な花を咲かせた。これまでもそうであったのと同じに、これからもそうなのだと信じていた。ずっと、変わることなく。
 不意に、冷たいものが胸の内へと触れる。定めなど宛てにならないとの言葉に、手を伸ばしそうになる自分がいる。一方で、そう繰り返せば、そもそも認めるつもりのなかった不安が自身を無様に揺らした。何かのきっかけで不穏が胸を覆うのは止めようがなくて、いつも、ただ息を殺してやり過ごすことしかできない。
 胸のつかえを無理矢理呑み込んで、傍らの鴆を振り返る。
 そして。
 眸が合った瞬間、互いが同じことを考えているとわかってしまう。
 相手がそれに気付いたことも、また。
 風はまだ冷たく、握り締めた指先はもう冷え切っている。表情までも強張った気がするのは、頬が冷たくなっているせいだろうか。
 最初に笑ったのは、鴆だった。
 伸ばされた腕が、リクオの頭を掴むよう、乱暴に髪を撫ぜる。
「オレにとっちゃあ、」
 温かな掌が頬へと滑り、優しく触れた。
 不思議な安堵が広がって、リクオも表情が緩む。
「二番すらねえけどな。……比べるようなもんじゃねえよ」
 口調は常の伝法なものなのに、ひどく真面目な顔で覗き込まれて、視線をそらすことができない。
 強い風が枝を揺らし、止むことなく花弁がさんざめく。けれど、鴆の声は花の音に紛れることなく、リクオの耳を打った。
「お前が、ただひとつなんだ、……オレの」
 低い囁きが、どこか切実に響く。
「いつも、ずっと。……それこそ千歳が経とうと、」
 強い光を宿した眸が、リクオを捉えた。
「オレは、お前が。……リクオ、」
 ゆっくりと、鴆の顔が近付く。
 冷たい唇が優しく押し当てられた。
 息を止め、目を閉じる。ただ触れた唇を感じて、紡がれた言葉を繰り返す。
 ちとせ、と鴆は言った。
 千年が経っても。
 互いがいない世になっても、それでも、と言うのだろうか。
 いっそお伽噺のような歳月は夢にも似ている。ただ偽りはそこにはなくて、いまから続く果てなさだけがあった。
 重なったときと同様、静かに離れていく体温に、リクオは眸を開けた。少し照れたような顔をした鴆が、小さく笑って、身体を離す。
「もう少ししたら、化猫横町にも花見に行こうぜ」
 枝へと手を伸ばした鴆は、もう、いつもと変わらない調子だった。
「その後は、薬鴆堂の周りでも桜が咲くし、もう少ししたら、捩目山まで行ってもいい」
「……そういや、遠野でも自慢されたな。なんでもえらく古い桜の巨木があるんだと」
「遠野なら、捩目山のさらに後になるか。一度行ってみてぇんだよな、こっちじゃ生えてない薬草もあるし」
「いいんじゃねえか? イタクたちが案内してくれるだろ」
 本家の枝垂れ桜が咲けば、その後を追うように各地で桜が咲き始める。千歳百歳、人の世を見てきた木々たちが、定め通り年に一度の花を咲かせる。
 今年の春は物騒な風が吹き荒れて、浮世絵町を出ることはかなわないかもしれない。百物語組の件は、そう簡単に片がつくとも思えなかった。それでも、今年には今年の花が咲くように、来年には来年の花が咲く。
 そうして季節が巡るなかで、どうか、あの夜の約束を守らせてほしいと祈る。
 鴆へと誓った、ただひとつの約束。
 オレが守ってやる、と。
 そう言ったのだ、あの夜に。
 鴆の望みを叶えたように、自身の約束も守らせてほしいと、ただそれだけを願う。
「いい加減、本気で冷えてきたな。行こうぜ、リクオ」
 軽く顔をしかめて、鴆がリクオの手を引いた。絡めた指の温かさに、素直にそのまま肩を並べる。
「オレの部屋で呑むだろう?」
「ああ、リクオの部屋からなら、よく見えるな」
「じゃあ、酒探してくるか」
「だな」
 あの夜から続く果てのない歳月で、どうか自身の約束を守れるように。
 千歳を刻む桜があるのなら、どうか。
 再会から一年を経た春の夜、リクオは鴆の掌の温もりを握り締めた。
                              (11.03.26.了)




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