静かな夜だった。
 年始といえど患者が来れば拒まないのが薬鴆堂だが、今夜は皆が宴にでも出掛けているのか、訪れる者もいない。
 奴良組の新年総会は年が明けた夜のうちから始まり、すぐに無礼講だ。大晦日の夜からリクオと呑んでいた鴆は、ほどほどのところで切り上げて帰途に着いた。少し眠り、年のうちに終わらなかった片付けものをしているうちに、気が付けばもう外は暗くなっている。
 正月らしく晴れ渡った空を宵闇が覆うと急に寒さも増して、鴆は襟をかき合わせた。総会が終わってしまえば、元日だろうといつもと変わらぬ一日だが、それでも何かがあらたまった気持ちになるから不思議なものだ。
 リクオはどうしているだろうか、と、思う。
 気が付けばいつも、そうやってリクオのことを考えていた。患者が途切れたとき。調合を終えた後。一人で酒をあおりながら。あるいは、夜具に横たわって眠る前のひととき。
 向けられた表情を、交わした言葉を、ふとした仕草を、思い出せば容易に気持ちは募って、触れられない情人の温もりが恋しくなる。別れて一日と経っていない今も、この手にリクオを抱きたくて堪らない。
 今夜もまた、本家では新年の宴が続いているのだろう。今や三代目となったリクオと次にゆっくり会えるのはいつなのか、もどかしさが胸を灼く。ただ会いたいという気持ちだけに狂おしく揺さぶられて、思わず鴆は自嘲に口の端を引き上げた。  いつこの世を立ち去ってもいいと、そう本気で思
っていたのが随分と昔のことのようだ。
「鴆、」
 物思いに沈みかけた気持ちを、よく知る声が遮る。勢いよく振り向いた鴆に、リクオは笑みを浮かべた。
「リクオ、おめえまた、」
「何一人で笑ってた?」
 鴆が立ち上がるより早く、リクオは文机の脇に腰を下ろした。冬の夜特有の冷たい空気の匂いが鼻腔を掠め、その身が冷えているだろうことを教える。
「本家はどうした。こんな日に抜けて、」
「こんな日だから、だろ」
 少し呆れたように口を尖らせ、リクオは顔をしかめた。
「もうただの宴会だ。おめえだって出てねえじゃねえか」
「そりゃあ、」
「別にオレがいなくたって、誰も気にしねえさ。……出掛けに捕まったから、ちっとばかし潰してやったけどな」
「ったく、」
 相手はとんだ災難だと苦笑すれば、リクオも悪戯っぽい笑みを閃かせた。
「飲み直すか?」
「……いや、」
 鴆の問い掛けに、少し迷って首を振る。そのままリクオは畳に倒れ込むと、身体を丸めるようにして眸を閉じた。
「どうした?」
「……ちょっと、だけ」
 既に眠そうな声が、かろうじて返される。
「総会の後、昼間は学校の奴らと出かけてたから、」
「寝てねえのか」
「……ん、」
「おい、こんなところで、」
 もう返事はなく、リクオは静かに寝息をたてている。
「ったく、……そんなに眠かったんなら、」
 独りごちて、けれど口にしてから鴆は気付いてしまう。
 それほど眠かったにもかかわらず、リクオはわざわざ薬鴆堂まで来たのだと。
 抱き抱えても起きないリクオを夜具に寝かせて、鴆は静かにその髪を撫でた。怜悧とも言える調った顔立ちが、眠っているときは不思議とあどけない。口元は少し綻んで、楽しい夢でも見ているかのようだ。
「リクオ、」
 屈んで、耳元へと囁く。
「ゆっくり休め。オレはここにいるから」
「……鴆、」
 呟きはまるで応えるようで、起こしてしまったかとひやりとする。けれどそうではなさそうで、身じろぐリクオは眠ったままだ。
 何かを探すように手が伸ばされ、指に触れた鴆の袖を子どものように握り締める。夢でも見ているのだろうか、安堵したように笑って、リクオはそのまま身体を丸めた。
『リクオ、』
 声には出さず、鴆はもう一度愛しい名を呟く。年の初めの夜、思いもかけない幸福に胸を掴まれる。
 眸を細め、鴆はもう一度リクオの髪を優しく撫でた。
                                         (12.01.01.)

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