昼前から降り出した雪は、夕方になってやや弱まったものの、夜になっても降り続いていた。大晦を迎えた本家の邸内はそこかしこで明日の準備が続いており、リクオが言っていた通りいつになく騒がしい。けれど、襖一枚距ててしまえば喧噪は遠くなって、雪の夜特有の静けさが身を押し包んだ。
鴆の手には、首無から渡された酒盆がある。朧車を迎えに出た首無は自身でリクオの部屋へ運ぶつもりだったらしいが、多忙の折に煩わせるまでもないと半ば無理矢理奪ってきた。
実際のところは、余計な手間を掛けさせまいとの気持ちが半分、逢瀬の邪魔を厭う気持ちが半分で、我ながら狭量なことだと自嘲が漏れる。酒盆を運んでもらったとて、首無は早々に下がるとわかっていてなお、年越しの今夜、情人のもとへは己一人で訪れたかったのだから仕方ない。
リクオの部屋へと続く廊下は人の行き来もなく、鴆は足裏に触れる冷たさに身を震わせた。喧噪だけでなく人の熱そのものすら吸い込んでしまうような雪を見遣って、一瞬歩を止める。思えば先だっての初雪の日も、リクオと一緒に本家で夜を過ごしたのだった。
「入るぞ、リクオ」
返事を待たず障子を開ければ、とうに気配を察していたのだろう、待ち構えていた様子でリクオは口の端を上げた。
「遅ぇぞ、鴆」
咎めだては口調だけで、笑みを浮かべてみせた情人に、鴆も笑って詫びを返す。
「悪かった。いない間の差配で、思ったより時間を食っちまってな」
「薬師の務めじゃ仕方ねぇ。……まあいいさ、まだ夜は長い」
隣に腰を下ろせば、早速リクオは銚子を取り、二つの盃を満たした。
「今日も雪見酒になるとはな。ここらじゃ珍しい大降りだ。おめえが呼んでんじゃねぇのか」
「莫迦言え。それを言うなら、おめえンとこの雪女だろうが」
手にした盃越し、視線を交わして一息で盃を干す。喉を滑り落ちる芳香に、自然と顔は綻んだ。
先日たまたま本家を訪れていた鴆に、元日総会の前夜から年越しの酒を呑もうと誘ったのはリクオだ。鴆に否やのあるはずもなく、大晦の今日、他の貸元より一足早く本家を訪れた。
数時間後には大広間に傘下の貸元が顔を揃え、リクオは奴良組三代目として皆と年初の盃を交わす。既に今年、三代目として初の元日総会で、リクオは居並ぶ面子を圧倒してみせた。早くも二代目が築いた最盛期を望む声が出始めるほどに、リクオの三代目ぶりは堂に入っている。
けれど年越しの今宵、二人だけの今は寛いだ様子を見せて、リクオは盃を重ねていた。笑んだ目元が染まった様はひどく艶めかしく、酒よりも強く鴆を酔わせる。
「……そうだ、ちょっと待ってろ」
互いに盃を重ねた頃合いで、リクオは何か思い出したように瞬くと、尋ねる間も与えず部屋を出て行った。開け閉めされた障子から流れ込んだ冷気は先刻より凍てついて、鴆もふと思い立って廊下へと出る。降りしきる雪に、周囲はすっかり覆われていた。
羽織の襟をかき合わせて、空を見上げる。吐く息が白く凍えて、指先も足裏も冷たくなった。ただ、静かに降り積もる雪に魅入られた心持ちで、夜を眺めやる。
雪の夜に人を訪う妖は雪女ということになっているらしいが、人の世に伝えられるそれは、ときに訪ねられる者の望む姿をとるという。吹雪が戸を叩く音が、二度と会えない誰かの訪いであれば、招き入れずにいられるはずもないだろう。
けれどそう思いながら、もう二度と会えないとはどういうことか、想像しようとしてあまりうまくいかない。
唯一無二の相手を失い、二度と会えずに生きていくということ。
足音が廊下を近付いて来て、鴆は振り返った。
「何してる鴆、こんなとこで寒いだろうが」
「雪見てたんだよ。ああ、蕎麦じゃねえか」
「美味いぜ。ほら、早く入って食わねえとのびちまう」
先に立って部屋へと戻ると、リクオはさっさと腰を下ろし、食べ始めた。鴆も箸をとり、いっときは蕎麦を啜る音だけが響く。
先日、人の子は何故大晦日に蕎麦なのかと尋ねた鴆に、リクオは謂われなど知らないとうそぶいた。後日に番頭へと尋ねれば、長寿を祈ってのことだとあっさり答えは返って、リクオはおそらく知りながら白を切ったのだと鴆は悟った。
過ぎゆく年をともに越し、来る年をともに迎える、その夜のささやかな願掛け。短命を定めとされた者には酷と憚ったのだろう。そんなリクオが愛しく、そして痛ましい。
「……美味いな、この蕎麦」
「言ったろう?」
顔を綻ばせたリクオの眸は、笑みながらも強い光を宿して鴆を映した。まっすぐ向けられた視線が憚らず鴆を射て、はっきりと胸の内が揺さぶられる。
応じるように、鴆の顔にも笑みが浮かんだ。
リクオの視線が、お前はこの眸に相応しいのかと挑む。携えるべきは感傷ではないと思い出させられて、鴆は己の不甲斐なさに、苦笑を押し殺した。
「来年も馳走になりたいもんだ」
「そんなん、幾らでもふるまってやるぜ?」
来年もその先も共にあるとの覚悟を込めて、一年後の夜を約束する。
特別な夜の願掛けとしてはささやかすぎるだろうか。
それでも、目の前のリクオが笑ってくれるのならば、そうやって月日はまためぐるのだと信じられる。
銚子が傾けられ、盃が干され、たわいないやりとりに笑いが混じり、目交ぜを交わしては笑み崩れた。戯れるように盃を重ね、酔いのまわったふりで互いを見つめた。
雪は静かに降り続いている。
年越しの夜が更けていく。
(了。10.12.31.)
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