遠野の地に踏み込むと、里特有の畏れがリクオの身体を包み込んだ。
 出るも入るも、常ならぬ畏れを纏う者でないと叶わない隠れ里。土地所縁の妖が修行を重ねながらひっそりと暮らす里だが、今日の遠野はいささか勝手が違っていた。
「リクオ、来たか! よかった、こっちだこっち!」
 待ち構えていたのだろう淡島は、リクオの姿を認めるやいなや騒々しく手を振り回し、一目散に駆け寄って来た。いきなり腕を掴んだかと思うと、気忙しく踵を返す。堅苦しい挨拶抜きなのはいつものこととはいえ、いかにも余裕がない様子は珍しい。
 そもそも、至急と呼び出されたから急いで来たものの、今に至るまでリクオはまったくその訳を聞いていなかった。組同士の抗争といった深刻な事態であれば、当初から説明がなされただろう。説明がないことから、そうした事件でないことがわかるだけで、何が起こっているのかリクオにはまったく心当たりがない。
「おい、何だってんだ。説明ぐらいしろって……」
「すぐわかる。黙って付いてこい」
 先に立つ淡島に引き摺られる格好になって、リクオはとうとう声を張り上げた。
「わかったよ。わかったからそう引っ張るなって」
「……おお、」
 腕を引けば、どうやらリクオの腕を掴んでいたのも無意識だったらしい淡島が、驚いたような顔で振り返った。
「珍しいじゃねぇか、おめえがそんなに取り乱すなんてな」
 茶化された淡島は一寸空を仰ぎ、リクオに視線を戻すと困ったように首を傾げてみせた。
「そんなこと言ってられるのも今のうちだぜ? ったく、なんでこんなことになっちまったんだか……」
「だーかーらー、何なんだよ、こんなことって」
「すぐわかるって言ってんだろーが」
 焦れったさにリクオが相手を小突くと、淡島は反撃はせず、ただ視線を返してきた。普段なら倍にしてリクオを小突き返す相手の躊躇うような表情に、不意に不安が募る。
「……淡島?」
「着いたぜ」
 怪訝な声を遮った淡島が示したのは、以前、恐山に行く途中で泊まった屋敷だった。客人に供される、遠野一の立派な造りだ。
 促され、胸騒ぎのするままリクオは草履を脱いだ。間取りはわかっている。上がり口から磨き込まれた廊下を足早に抜け、勢いよく奥の間の襖を開け放った。
「……鴆!?」
 イタク、冷麗、紫、雨造、土彦ら、部屋の中の面々が一斉に振り向いた。彼らに囲まれ布団から身を起こしているのは、間違えるはずもない、薬師一派の長、初めて契りを結んだ義兄弟、そしてそれ以上の存在である鴆だ。
 心臓が大きく脈を打ち、一瞬、息が止まりそうになる。
「おめえ、どうしたんだよこんなとこで!? 大丈夫か!?」
 冷麗が場所を空け、リクオは慌てて枕元に膝を着いた。
「なあ、調子悪いなら起きてねェで……」
 間近から鴆を覗き込み、リクオは異常に気が付いた。
「……鴆?」
 確かにリクオを見ているのに、鴆の顔は怪訝そうにしかめられたままだ。睨む強さで見つめられ、けれどその眸には何の感情も過ぎらない。
 目を離すこともできず、リクオも鴆をただ見つめ返した。心臓が、速い鼓動を刻んでうるさい。得体の知れない不安が膨れ上がり、身じろぎすらできない。
 先に目を逸らしたのは鴆だった。
 唇を噛む横顔は、何故か知らない相手のように見えた。
「悪ィな。おめェもオレの……知り合いなんだろ?」
 苛立たしげに頭をかくと、鴆は眉を寄せ、もう一度リクオへと視線を向けた。
「……おい、鴆、」
 言っている意味が、わからない。
 けれど同時に、唐突に腑に落ちる。鴆が見知らぬ相手に見えるのは、鴆がリクオを、知らない誰かを見る目で見ているからだ。
 今初めて会った誰かを見るような、まっさらな視線。まるで、これまでの付き合いすべてがなかったかのような。
「生憎、何も思い出せねェんだ」
「……何だって?」
「リクオ、」
 後ろから、そっと冷麗が袖を引いた。
「鴆は、昨日から薬草採りに来ていたのだけれど、山で足を滑らせて、頭を打ったのよ」
「……それって、」
「目が覚めたら、何も覚えてないっていうの」
「……何も、覚えてねェ?」
 視線を冷麗から鴆へと戻して、リクオは聞いたままに呟いた。他人事のように肩を竦めて、鴆が頷く。
「おめえ……、」
 絶句したまま拳を握りしめ、鴆を睨み付ける。視線を交差させ、ややあってリクオは大きく息を吐き出した。
「……何やってんだ、莫迦……」
                                    (『久遠』より)

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