先ほどまでの出来事が嘘のように、薬鴆堂の周囲は静かだった。晴れた空には上弦の月がかかり、細い光を地上へと投げかけている。竹林をわたる風の音だけが時折ざわめき、夜の静けさを際だたせた。
 四月の夜は、更ければまだまだ肌寒い。けれど露天の焼け跡には、何事もなかったかのように酒を酌み交わす二つの人影があった。
 これほど美味い酒を呑んだためしはない、と盃を重ねながら鴆は思う。
 右腕としていた側近に裏切られ、火を放たれた屋敷は焼け落ちた。それでも、自分の隣で呑んでいる男に対する驚きに比べれば、それらすべても取るに足りないことのように思えてしまう。
 今日の昼間、およそ五年ぶりに鴆は本家を訪れた。以前は頻繁に出入りしていた時期もあったが、あるとき体調を崩してから、足は遠のいたままだった。
 身体の不調は鴆という妖の性からくるもので、ある程度の歳に達してしまえば、ずっとこの状態が続くことは父や祖父の例からわかっている。身の内に毒を飼い、それを扱う術を持ちながら、その毒から逃れることは叶わない。短命を宿せられた鴆の一族が薬師であることは幾分皮肉だと思わなくはないが、薬師の身だからこそ、冷静でいることもできるのかもしれなかった。少なくとも今までは、己自身の刻限を定めとして受け入れていたのだ。
 けれど、今は。
 鴆は、隣に座り涼しい顔で盃を干しているリクオへと視線をやる。
 数年前、本家の総大将の孫であるリクオが三代目を継がないと言い出したことは、薬鴆堂でふせっていた鴆にも聞こえてきていた。
 もともとリクオを流れる妖の血は四分の一のみ、半分以上は人の子であり、加えて父である鯉伴は、妖として生きるか人として生きるか、成長した本人の自由にさせるつもりであったらしい。ただ一人の三代目候補だった子供をうつけと非難する声は急速に大きくなり、その間、鴆は一人薬鴆堂で苦々しい思いを持て余す他なかった。
 鴆の記憶にあるリクオは、自分を真っ直ぐに見、大きくなったら立派な妖怪の総大将になるんだと繰り返し言っていた。自然と人を惹き付けるその子供なら、人の血が入っていようと主とするのに不足なしと思っていた。
 だから時ここに至って、総大将からリクオと話をしてくれと言われたとき、遠出を気遣う一派の者を振り切って、浮世絵町まで出向いたのだ。
「どうした、何を見てる鴆?」
 視線に気付いたリクオが、首を傾げてみせる。微かに持ち上げられた口の端が笑みを形作り、鴆はもう何度目か、彼に見惚れてしまう。
「信じられねぇって顔だな」
 からかうような口調に軽く首を振って、鴆もかろうじて笑みを返した。
「そんなんじゃねえよ。……ただ、驚いてるだけだ」
「それこそ、もう十分だろ」
「そうは言うけどなあ、リクオ、」
 身体ごと振り向いたリクオの視線が、真っ直ぐに鴆を射る。正面から、強い光を宿す眸に見つめられれば、身の内の何処かがどうしようもなくざわめいた。
 漸く出会えたのだという悦びが、先刻からずっと身体を熱くしている。自身の身を賭すことのできる主を今夜得たのだと思えば、どれだけ感謝しても足りなかった。
 残り少ないと見定めた命をこのまま甲斐なく散らすのかと、一度は絶望したのだ。
 昼間再会した子供は、三代目は継げないとはっきり言った。「人間が妖怪の総大将なんて変でしょう?」と。
 自身のことを人だと言い、だから継げないと続けたその言葉は鴆を失望させるに十分で、落胆のまま席を蹴って帰路についた。
 なのにそれから幾時も経たぬうち、側近に襲われた鴆のもとに現れたリクオは、見たことのない姿へと変化し、一刀のもとに蛇太夫を切り捨てて鴆の命を救った。
 在るだけで辺りを払う存在感。動じることなく相手を返り討った冷静さ。美しいほどに鮮やかな身のこなし。
 すべてに圧倒され、そして、ただただ見惚れた。
 切れ長の瞳、筋の通った鼻梁に形のよい唇。冴え冴えと冷たいほどに調った顔立ちは、誰もが目を奪われるだろう。けれど何より見る者に強い印象を残すのは、その強い眼差しだ。
 その眸に見据えられれば、不穏なほどに血が沸くのを感じた。
「……嬉しいんだよ、オレは」
 つい零れた直截な言葉に、リクオは肩を竦め、手酌で盃を満たす。
 今し方、鴆の求めるまま、二人は義兄弟の盃を交わした。自分が死ぬ前に三代目の晴れ姿を見せてくれと言った鴆にリクオは沈黙を返し、ただ、持参した酒を勧めた。
 それなら、と鴆は盃を望み、リクオはあっさりと頷いたのだ。
「鴆は弱ぇ妖怪だかんな」
 片頬だけで笑んで、リクオが鴆を振り返る。
「オレが守ってやるよ」
「……はっきり言うな、夜のリクオは」
 遠慮のない物言いに、つい苦笑が漏れる。けれど率直さは、むしろ鴆の胸を好ましく揺さぶった。
 互いの腕を交差させ、誓いの盃をあおると、相手とは吐息を感じるほどの距離だ。リクオは胸の内を悟らせないすました顔ながら、間近に眸が合えば、その強さに鴆は息を呑んだ。
「もう、思い残すことはねえや」
 盃を置いたとき、つい零れた言葉は鴆の本心だ。残された己の刻限はただの事実で、望みはただ、自身を奴良組の為に用いることだけだった。この主ならその望みは叶えられると、そう思ったのだ。
 けれど。
「生きろよ、鴆」
 返されたのは、静かなリクオの言葉だ。柔らかな声音ながら、有無を言わせぬ口調だった。
 思わず顔を上げれば、心持ち細められたリクオの眸が、真っ直ぐに鴆を見据える。
「生きて、オレの為に働け」
 自身の言葉を覆されることなど知らない、正に百鬼の主の風格で、命は繰り返された。
 すべてを知った上で、ごく当たり前のようにリクオは言う。
 生きろ、と。
 率直すぎる言葉に鴆は眸を瞠り、そうして、不意にひとつの決意が胸で芽吹くのを自覚した。
 リクオの言に添うことかどうかはわからない。
 それでも、自身の命を賭すとするなら。
 自分が、リクオを守る。
 リクオを傷付けるもの、悲しませるもの、害なすもの。そうした悪しきものすべてに対して、自分がリクオを守る。
 誰にも、何にも、リクオを傷付けさせはしない。
 たとえ、この身に代えても。
「嬉しいこと言ってくれるじゃねえか。……三代目」
 ひとたび生じた新たな想いは、かつて覚えのない強さで鴆の身の内を充たしていく。
 これは、自分が生きている限り抱いていく誓いだ。
 沸き立った血が身体を火照らすのに任せ、鴆はリクオを見つめた。自ずと浮かんだ笑みをどう見たか、リクオは満足そうに酒瓶をかざしてみせる。
 互いの盃に再び酒が満たされ、後はただの酒宴だった。
 いまだ燻る建材も残る焼け跡で、月明かりだけを頼りに差しつ差されつ、気が付けば酒瓶の中身は残り少なくなっている。上弦の月も、傾いて消えていこうとしていた。
 酔いが回っているのか、冷えた夜気が心地よい。春の夜の柔らかな気配が二人を包み、時間を忘れさせていた。
 こんなに美味い酒を呑んだためしはないと思い、けれどこれから先は、幾夜もこんな夜を過ごせるのかもしれないと、鴆は思う。
「ほら、もうこれで終えだ」
 促せば、リクオは黙って盃を出した。
「今度本家に行くときには、オレが美味い酒持ってってやる」
「……ああ、」
 盃から視線を上げたリクオが、楽しげに笑う。
「そいつぁ楽しみだ」
 酔いのせいだろう、目元を少しだけ染めて笑うリクオに鴆の視線は奪われ、何故か落ち着かない気持ちになる。
「おう、期待して待ってろ」
 たわいないやりとりに、何でもない仕草に、ひどく心が浮き立つ。
 月はいつしか、西の地平線に姿を消した。酒もなくなり、とうとう立ち上がったリクオを、鴆が呼ぶ。
「なあ、リクオ、」
 振り返った傍らに並べば、幾分か鴆の方が背が高い。別れ難く、帰したくない気持ちばかりが胸を占めて、けれどそう口にしてしまったが最後、危ういものが溢れてしまう気がした。
 何か、晒してはいけない不穏な熱。浮き立つ気持ちの下で脈打つ、剣呑な予感。胸を締め付けるものの正体から目を逸らしたまま、鴆は義兄弟となった男を見つめた。
「今日は嬉しかったぜ」
「……オレもだ」
 笑みを返し、朧車の方の方へ行きかけて、今度はリクオが振り返った。
「鴆、」
「何だ?」
 何かを見定めるかのように、リクオの視線が鴆の眸を捉える。
「オレの約束、忘れんなよ」
「……オレが言ったこともな」
 口の端を上げて応えると、今度こそリクオは朧車のなかに消えた。
 軽々と空へと滑り出たそれを、見えなくなるまで見送る。
「……約束、か」
 一人ごちれば、自ずと笑みが浮かぶ自覚はあった。
 鴆を守ると、リクオは約した。
 三代目の晴れ姿を見せてくれと、鴆は望んだ。
 奴良組傘下の貸元連中が、今更素直にリクオを認めるとは考えづらい。それでもリクオなら、早晩何とかしてしまう予感が鴆にはあった。
 三代目となったリクオを、自分は守っていく。
 契りを結び、眸を見交わした刹那、リクオが浮かべた笑みが眸に焼き付いて離れない。
 胸の奥まで見通すような眼差しが綻んで、得も言われぬ色気を醸し、遠慮のない言葉を吐く唇は艶やかに円弧を描いた。あの笑みを、忘れられるわけなどない。
 この記憶がある限り、自分は、リクオを。
 月のない空を見渡し、鴆はもう一度、リクオの消えた浮世絵町の方角へと視線をやった。
 これまで、己の刻限に不満などなかった。
 けれど、今は。
 その傍らで、リクオのために在ることを許されるなら。
 鴆は知らず、口元を歪めた。
 果てない日々を望んでしまいそうだった。望んで叶うものではないと、己がいちばん知っているというのに。

                               (11.08.12.発行『恋愛前夜』より)




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