「地下道場? そんなもんがあったのか?」
「近年は閉じたままにしておりましたから……、呼んできましょうか?」
「いや、……」
 その夜、鴆が本家を訪れたのは、リクオと秋祭りに行く約束をしていたからだった。奴良組傘下の組は小さいものまで含めれば関東一円にも無数にあり、それぞれの土地で世話役となっていることも少なくない。土地神を守っているとなれば祭りの仕切りを担うのも当然で、今日行くつもりだった夜市も、長く奴良組が面倒を見てきた神社の祭りだ。
 行ったことがないというリクオに、連れて行ってやると鴆が言ったのは半月前のこと。忘れているとは思わないが、道場に籠もっているというのなら、修行に夢中になっているのかもしれなかった。
「特訓中なんだろ。それには及ばねぇよ」
「お待ちにはならないので?」
「祭りならまた機会があるさ。リクオにはよろしく言っておいてくれ」
 何か言いたげな首無を後にして、鴆は本家を辞した。
 待っていても、別によかった。急ぎの仕事があるわけではない。何時になろうと構わなかった。
 イタクが来ているというのなら、荒っぽい特訓をしているだろうことは容易に想像がつく。二人を待って、傷だらけの身体を診てやろうかとの考えも、頭をかすめた。
 けれど逡巡したのは一瞬で、鴆は結局そうしなかった。
 京都を経て、三代目を襲名し、リクオは今や奴良組の総大将だ。皆を守る為に強くなりたいと、焦がれる強さで望んでいるのを、鴆がいちばんよく知っている。
 遠野にまた行くつもりだとは聞いていたものの、イタクが来ていることは初耳だった。遠野の生真面目な鎌鼬はああ見えて情が篤いが、わざわざ浮世絵町に出向かせるとは、リクオの人たらしも相変わらずだと思う。あれこれ文句を言いながら、イタクも結局リクオのことを認めているのだ。夏の遠野行きでひとまわり成長したように、努力した分、リクオは何かを掴むだろう。
 それならば、特訓だろうと何だろうと、存分にやらせてやった方がいい。夜市に行こうというのは酒を呑みながら出た話で、急ぎの用事でもない。無理に出掛けるほどではないと鴆は判断した。
 とはいえ、リクオと祭りに行くのを楽しみにしていなかったと言えば嘘になる。そのまま薬鴆堂にとって返すのも気が進まず、鴆の足は一緒に来るはずだった夜市へと向いた。
 住宅街の中の、さほど大きくはない神社だ。それでも、暗い神苑を背に表参道は屋台で埋め尽くされ、明るく照らし出されている。とうに暮れ、夜の帳が降りた町中にあって、そこだけが賑やかで、光り輝くようだった。
 シマの祭りに活気があるのはいいことだ。参道に足を踏み入れれば人出は上々、子どもから大人まで、笑いさざめく人の渦だった。走り回る子どもらに、ついリクオの小さい頃を思い出す。
 本当は、あの頃のように、リクオにはいつも笑っていさせてやりたい。もう子どもではないとわかっていても、守ってやりたい気持ちに変わりはない。
 むしろ、リクオの覚悟を知る今の方が、そう願う気持ちは強かった。
 どうすればリクオの力になれるのだろうか。
 この先のいつかを思うとき、胸に蹲る冷たいものが頭をもたげる。鈍い痛みが腹の底を灼いて、鴆は唇を噛んだ。
 躊躇っていた自分の手を取ってくれたのは、リクオだ。狂おしいほどリクオを想いながら、一度は諦めようとした鴆を、リクオは欲しいと言った。
 いちばん近くに、共にいてくれ、と。
 三代目という立場を憚り、何より自身の短命を憚って想いを葬ろうとした鴆に、リクオは真っ直ぐ思いをぶつけてきた。
 今はもう、その手を離すつもりはない。
 けれど、いつか自分がリクオを傷付けるのではないかとの怖れも、ずっと鴆の胸に燻っている。
 リクオを置いていかなければいけないときが、いつか来る。
 どうすれば、リクオを傷付けずにすむだろうか。
 参道を歩いていけば、顔見知りの姿も目に入った。挨拶を交わし、近況を交わし合う。三代目が正式に襲名したことで傘下にも活気があると聞けば、誇らしい気持ちになった。
 実際に歩き回り、しばらく身を置けば、夜市の雰囲気がいいことはすぐにわかる。世話役がしっかりと取りまとめているのだろう。店の者も、裏方も、客も、皆がこの場を楽しんでいる。
 鴆がこうした場所に出向くのは、久しぶりだった。賑やかな場所は嫌いではないが、ここ数年、この春までは、用事もないのに出歩くことはほとんどなかった。あれこれ見て回れば、楽しげな雰囲気に気も紛れた。
 ふと気が付いて、鴆は思わず自嘲を浮かべる。リクオの邪魔はしたくないとあっさり本家を後にしたが、今日の約束を自分は随分と楽しみにしていたらしい。こうして歩き回っているのも、塞いだ気持ちを持て余しているからだと今更のように思い至る。こんなことならあのまま待って、顔くらい見てくればよかったかもしれない。
 幾人かの知り合いと言葉を交わせば、思いのほか時間が過ぎていた。急に肌寒さを感じて、鴆は身震いする。そろそろ帰るかと思った、その時だった。
「鴆!」
 人混みをかき分けて来たのは、リクオだ。
「リクオ!? お前何だその顔は!?」
「ったく、ちっとくらい待っててくれよ」
 互いの顔を認めた途端に声がぶつかって、一拍後、吹き出したのはリクオだった。
「おめえにはそう言われるだろうって思ってたぜ。けど、大したことぁねぇんだ」
 こしらえたばかりらしい青痣が、リクオの口元に痛々しく広がっている。
「はあぁ? ちょっと見せてみろ」
 人の行き交う道の真ん中で、鴆はリクオの両肩を掴んだ。
「こんなとこで、おい、」
「黙って口開けろ」
 笑ってかわそうとした相手を逃さず、鴆は肩に置いた手に力を込めた。悪さが見つかった子どものように、リクオはややふてくされた表情で口を開ける。
「歯は平気か……、中もちょっと切れてるな」
「らから、らいりょううらって、」
 指で歯を確かめる鴆から後退ろうとしながら、リクオは諦め悪く抗議の声をあげた。構わず、鴆は傷の具合を丁寧に確かめる。やっと解放してやると、憮然としたリクオが上目遣いに睨んできた。

                                 (11.12.29.発行『月影』より)

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