春の名残のように、月が朧に霞んでいた。
 ふと途切れた会話の狭間の静けさに、リクオは空を見上げ、目を細めた。
 頬を撫ぜる夜風は心地よく、山中にある薬鴆堂でも夏が近いことを教える。数日前まで、広縁で呑んでいれば夜気が身体を冷やしたが、今夜は夜更けになっても空気が柔らかい。少し湿った空気は、雨が近いのだろうか、土と若葉の匂いを色濃く漂わせていた。
 芽吹く木々の発する鮮烈な香気が、薬鴆堂を包む独特の匂いと混じり合って、鼻腔をくすぐる。
 山中にある此処は、町中の本家より季節の巡りが鮮やかだ。草木の気配を感じながら盃を重ねれば、いつも、気持ちも身体も寛いでいくのを感じた。
「リクオ、」
 静かな声と共に、鴆の指が頬に触れる。
「ん?」
 振り向くと、身を傾けた鴆と目が合った。つい今し方まで笑い合っていた相手に、ひどく真面目な表情で見つめられ、リクオは小さく頭を傾げる。
「……どうした、鴆?」
「いや、」
 頬をそっと撫でられる。
「……眠いなら、部屋で休むか?」
「んなこと、ねぇけど。そう見えたか?」
「ちょっとぼんやりしてたろ」
 笑って首を振れば、鴆の表情も綻んだ。優しく髪を梳いた指は、触れたときと同じよう、静かに離れていく。
 遠のいた体温が名残惜しくて、少しだけ、リクオは身体を寄せた。
 目の前の恋人はときどき随分と間抜けなことを言う。
「……お前のこと、考えてたからな」
 腹いせも手伝ってからかうような笑みを向ければ、鴆も苦笑を浮かべる。
「隣にいるのにか?」
「……此処で呑む酒が、いちばん旨いと思ってさ」
 少し酔いが回った身体を自覚しながら、リクオは言葉を継いだ。
「此処でこうして呑めるから、オレは、」
「リクオ、」
 身を寄せてきた鴆に、背中から抱き締められる。
 そのまま、両脚の間に抱え込まれ、子どものように鴆の腕に閉じこめられた。
「今夜はえらく素直じゃねえか」
 軽口めいた口調を続けながら、鴆の唇はリクオの首筋を滑っていく。
 遠回しな愛撫に甘い期待が疼いて、リクオは小さく身を捩った。
「別に、んなつもりねぇけど」
「……ほんとはな、さっき、」
 抱く腕が、襟元から素膚へと潜り込む。胸の頂きを摘まれて肩を揺らせば、耳元で笑んだ気配がした。
「空を見上げてるお前見てたら、……そのまま何処か、行っちまいそうで、」
「鴆、」
「だから、」
 濡れた音を立てて、膚に口付けられた。跳ねそうになる身体を堪えて、鴆へと背を預ける。
「……莫ァ迦」
 速くなる鼓動は、伝わってしまっているだろうか。わざと乱暴な口調で遮って、鴆の頭を上げさせる。
「何処行ったって、お前がいてくれるから戻ってこれるんじゃねえか」
 振り向いて、頬と頬とを擦り合わせた。じゃれつくような仕草に返されたのは、深い口付けだ。
「……んっ……」
「……リクオ、」
 囁いた鴆の声は、色っぽく掠れた。息を弾ませたリクオの身体を、掌がゆるゆるとまさぐる。
「……ったく、これ以上オレのこと喜ばせて、どうすんだ」
 弄られ続けた胸は尖って、鴆の指に擦られるたび、身体の奥が熱く焦れている。もどかしさを呑み込みきれず、リクオは小さく喘いだ。
「……ぁっ……、」
「……リクオ、……」
 もう一方の鴆の手が、裾を乱して潜り込んだ。性急な下腹への愛撫に、大きく腰が跳ねる。
「……っ……鴆……? やっ、……こんな、外、」
「今更、……誘ったのはお前じゃねえか、リクオ?」
「……けど、……っ……」
「お前が来てんだ、誰も近付かねぇよ。……そんな余裕も、ねぇだろうが?」
 後ろから絡められた鴆の脚が、リクオの両脚を拓かせる。裾はたくし上げられ、外気に晒された膚がいかにも心許ない。
「……鴆……っ」
「そんなに言ってくれるなら、……確かめさせてくれよ。オレの腕の中の、お前を、」
 神妙な言葉と裏腹に、恋人の身体を知り尽くした指は、容赦なくリクオを乱していく。
 扱かれて昂ぶらされ、けれど最後の刺激は与えられずに熱ばかりが溜まっていく。
「……っ……はっ……ぁんっ……」
 背を走った疼きに仰け反れば、霞んだ月にまるで見られているようだった。
「リクオ、……その声、堪んねェ、」
 乱れた着物の肩を落とされる。首筋に顔を埋めた鴆に甘噛みされて、敏くなった身体を疼きが充たす。
 縋るもののないまま、鴆の腕の中で蕩かされていく。
「……やぁ、っ、……鴆……、」
「もっと、……呼べよ、リクオ」
 夜気に晒した膚ですら、熱い。
 乞われるままに恋人の名を呼べば、鴆の掌がリクオを追い上げる。
 葉擦れの音しかしない静けさの中、二人分の荒い呼吸だけが耳を弄した。
 月が山の端に沈むまで、まだ、残された夜は長い。

                                            (12.05.05.)

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