返された低い声は、当たり前ながらひどく険悪だった。
「慌てやがって……、ンなわけのわかんないもん、むやみに呑むかよ」
「悪かった」
一言もなく頭を下げる。
「ったく……」
小さく咳をして、顔を上げたリクオが鴆を睨む。両頬についた涙の跡が痛々しい。身の置きどころのなさと後ろめたさがないまぜになって、鴆はただリクオを見つめた。紅く染まった眸の際は常と違う色っぽさでつい指を伸ばしたくなるが、どうにか衝動を抑え込む。
「……何、情けない顔してやがる」
言葉を継げずにいれば、リクオは表情を緩め、小さく笑みを浮かべた。
「おめえがあんなに慌てるなんて、珍しいじゃねえか。一体、呑んだらどうなるってぇんだ」
呆れた口調ながらも、鷹揚に笑った顔はいつものリクオだ。
「まさか、噂通りってわけでもねえだろうが……そんなにヤバいもんなら、どうするつもりだった?」
「……そのまさかだよ」
事ここに及んで、鴆は腹をくくった。怪訝そうに眉を寄せたリクオを、真っ直ぐに見つめ返す。
「何て聞いたかは知らねえが、大体はさっきおめえが言ってた通りだ。言ってみりゃあ媚薬ってヤツだな」
「……媚薬」
瞬いて、リクオは鴆の言葉を繰り返した。
「そうだ。……聞いたんだろう? 一粒含めば身体に熱を生じて、どうしようもなく相手が欲しくなる、と」
声を低めて明け透けな言葉を使うと、とうに見当はついていたであろうリクオの頬も染まる。
相手の表情を見過ごすまいと、鴆は正面から切れ長の眸を覗き込んだ。涙を零したばかりの眦はやはりどうしようもなく扇情的で、今度は我慢できそうにない。
片手をその頬へと這わせ、眸の縁を親指でなぞる。
「……おめえのことが欲しくて、……おめえももっとオレのことを欲しがればいい、と、出来心起こしちまった。……許しちゃあくれねえか」
鴆を見つめたまま、リクオは眸を瞠った。
耳にした言葉を反芻するような間があり、ややあって、表情が剣呑なものへと変化する。
怒った顔も綺麗だ、と思った瞬間、鈍い音とともにこめかみを思い切り殴られて、鴆は畳へと突っ伏した。
「……つまりお前は、」
いい拳だと思いながら身を起こせば、既に立ち上がったリクオから不穏きわまりない声音が返される。
「オレにその媚薬とやらを呑ませるつもりだったと、そういうことか、鴆?」
地を這うような声に身の危険を感じるが、ここで目を逸らすわけにはいかない。真っ直ぐ見つめ返せば、かつて見たことのないリクオがそこにいた。
「悪かった、リクオ」
柳眉を逆立てたリクオに睨まれて、それだけ言うのが精いっぱいだ。
「……ざけるな鴆……っ」
リクオはリクオで、怒りの余りうまく言葉が継げないらしい。
「……てめえ……っ、……」
何か言おうとして、けれど言葉にならず唇を噛むと、子どもが拗ねるように口元を曲げ顔を背けた。
尖った一瞥を残し、足早に脇をすり抜けようとしたリクオの裾を、慌てて掴む。
「離せ、鴆」
逃さぬよう、きつくその身体を抱き竦めれば、険悪な声が返された。
「……頼むリクオ、許しちゃあくれねえか」
「離せよっ」
「絶対離さねぇ。……オレが悪かった。だから、」
「……っの莫迦っ、……」
身を捩るリクオを構わず抱き締めた。悪いのは自分であろうと手を離すつもりはない。傷付けた贖いをさせてもらうまで、何度でも謝るしかなかった。
振りほどけないと悟ったのか、リクオも抗うのをやめ、鴆の腕の中で身を強張らせている。愛しくて大事な情人が頭に血を上らせているのは伝わって、怯みながらもその髪へ額をつける。
「なあ、リクオ、」
許しを乞うて、腕の力を強くした。祈るような気持ちでリクオの鼓動を感じる。
「……そんなら、」
不機嫌も顕わな声が、耳を打った。
「何であんなにして吐き出させようとした? 放っときゃいいもんを手荒い真似しやがって、ひでえ目にあった」
「そりゃあ、」
口をきいてくれたことに安堵する。その答えならもう出ていた。
「今更だけどな。……おめえが、」
耳元に唇を寄せる。
「自分でオレを欲しがってくれなきゃ、意味がねえ」
俯くように顔を背けた、リクオの頬は染まったままだ。怒りの余韻か、あるいは恥じらいかと都合よく考えて、鴆は囁きを低くする。
「お前が自分で素直になってくれるんじゃなきゃ、ちっとも……」
「鴆、」
遮って、リクオが振り向く。
怒った顔で鴆の項へと手が伸ばされ、そのまま唇が重なった。
「んっ……」
不意打ちにされるがままになれば、リクオの唇が鴆のそれを食んだ。まるで誘うような吐息を聞かせながら、熱い舌が滑り込んでくる。
絡められた舌に眩む心地を覚えて、リクオの腰を引き寄せた。
差し出される熱は、張り詰めていた気持ちを解していく。舌先で戯れ、口腔をなぞるリクオを感じて身体中の血が沸いた。
離れてはまた触れて、幾度となくリクオは鴆の唇を塞いだ。夢中で互いを貪り、相手の熱の昂ぶりを感じ合う。
ようやく互いを解放すると、リクオは乱れた息を厭うよう眸を伏せた。切なげに眉を寄せ、鴆へと手をまわして腰と腰とを重ね合わせる。
「リクオ?」
率直すぎる誘いは、そのつもりだったとはいえ鴆を慌てさせた。唐突な行為の意味がわからないまま、間抜けな声を出してしまう。リクオはさらに鴆を引き寄せ、慣れない所作で自身の下腹を鴆へと押し当てた。
「……オレが、お前のことを欲しがっていないと?」
怒った口調なのに拗ねたようにも聞こえる声は、掠れてひどく色っぽい。
「リクオ、……お前、」
顎をすくえば潤んだ眸には見知った欲情があった。いつもと違うのは、すぐに背けられた横顔と、そこに浮かぶ表情だ。最初の怒りとは少し違う、むきになったようなリクオの顔は、本人には言えないがどこかかわいらしい。
けれどその怒りの在処を知れば、自分の予期せぬ方向に彼を傷付けてしまったと思い知る。
それは誤解だと、焦りばかりが募った。
「違ぇよリクオ、そうじゃねえ。お前がどうこうって言うんじゃねぇんだ。ただオレが、……オレは、いつもお前のことがどうしようもなく欲しくて、いっときだって離したくねえ」
「……おいっ?」
強引にリクオの身体を抱き上げ、そのまま畳へと押し倒す。相手を跨いで膝をつき、両の手首を縫い止めるよう、抑え付けた。
「鴆っ」
「お前のことが欲しくて欲しくて頭がおかしくなりそうなのは、……ただのオレのわがままだよ」
見下ろせば、リクオは抗うことはせず、真っ直ぐ鴆を見上げてきた。納得しかねる様子で硬く唇を引き結んだ相手を、ただ、乞う想いで見つめ返す。息を潜めて、随分と長い時間を待った気がした。
「……ったく、だから莫迦だっていうんだろうが」
実際にはほんの数瞬だろう。ようやく口を開いたリクオは大きく息を吐き出し、呆れたような苦笑を浮かべた。
「欲しくて欲しくてどうしようもないのが自分だけだなんて、本気で思ってる訳じゃねぇだろうな?」
細められた眸に、勝ち気な表情が戻ってくる。
「それは、リクオ、」
「埋め合わせはしてもらうぜ? ろくでもねぇこと考えた分、きっちりとな」
口の端を引き上げて、リクオが綺麗に笑う。屈託のない口調はもういつものもので、鴆も自然と安堵の笑みが浮かぶ。
「……埋め合わせを、させてもらえんのか?」
「できるもんならな」
承知して軽口で応じれば、リクオもすました顔で嘯いた。
「じゃあ、」
身を屈め、優しい口付けを落とす。
掴んでいた手首を離せば、待ちかねたようにリクオの手が鴆の首へとまわされた。
「リクオ、」
名前を呼んで、もう一度口付ける。リクオが呟いた名は鴆の舌に絡めとられ、吐息の中へと消えた。
「……後悔すんなよ?」
「言うじゃねえか」
戯れに囁けば、艶っぽい笑みが返される。幾度見たかわからないその表情に鼓動は跳ねて、愛しさが胸を覆う。
どうやって甘く啼かせようかと、身体が熱くなる。
しばし見惚れ、鴆はリクオの鎖骨へと歯を立てた。
(了。11.04.23.)
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