身じろぎもせず鴆に身体を預け、呼吸が調うのを待った。脳裏に響いていた鼓動が鎮まって、細く開けた窓からの夜風に気が付く。まだ冷たい夜気には甘い花の香りが混じっていた。
 花の名前など、知らない。ただ、ひどく心騒がせるその香りに、鴆の腕へ掛けた指へと力を込めれば、肩越し、頬へと唇が押し当てられた。
 たった今リクオをいいように悦がらせた鴆なのに、その仕草はまるで子どもが縋るようで、伝わるのは情欲というよりただ親愛の情だ。腕の中にリクオを囲った鴆は、相手の存在を確かめるよう、そのまま動かない。
 風が運ぶのか、それとも今まで己が気付かなかっただけなのか、花の香はますます強く閨を包む。
「リクオ、」
 耳元を吐息がくすぐって、リクオは思わず口元を緩めた。
「心配かけたな。ここしばらく調子がよかったから、なおさら驚かせたんじゃねぇか?」
 低い声は幾分生真面目な響きを聞かせて、耳に落ちてくる。
「そんなん、わざわざ言われることじゃねェ。ここへ通ってんのは、オレが好きでしてることだ」
「そう言うだろうとは思ったけどよ、」
 苦笑が混じり、わずかに間が空いた。
「来てくれりゃあ嬉しくて、つい甘えちまう。臥せった後なら尚更だ。けど、このまんま、おめえに無理もさせられねぇ」
 いつものさばけた口調に、少しだけ照れた風情が滲む。
「もうオレは大丈夫だ。だから、」
「さっきも言ってたようだがな、鴆、」
 最中に聞き咎めた言葉が耳に返って、リクオは鴆を遮った。
「無理なんてした覚え、オレはないぜ? 言ったろう、好きで来てると」
 それは嘘偽りのない本心だ。顔を合わせていれば想い煩うこともない。膚を合わせていれば尚更のこと。鴆の不調を知りながら、本家で独りあてどない心配を募らせることこそ御免だった。
 烏天狗に聞かされた、鴆という妖怪の性。体内に猛毒を育て、代々短命だという美しい鳥の妖。己と部下とを恃めばできないことなどないと信じるリクオが、彼を想うときだけ、どうしようもなく無力な自身を思い知らされる。
 日頃は意識せずとも、胸の隅に追いやった不穏が消えるわけでは決してない。こうして事があれば浮上し、深く暗い穴を身の内に穿つ。
「そう言ってくれるのは嬉しいが、」
 リクオの咎め立てを宥めるよう、抱く腕が強くなった。
「夜が明ければ、おめえは、昼のが学校に行ってんだろうが」
「だから何だ」
「四国ん時に倒れたの、忘れた訳じゃねぇだろう? 気持ちはともかく、おめえの身体がもたねぇ」
 気遣われていると、わかってはいる。
 鴆の言う通り、己と昼のとがそれぞれ動いているせいで、ろくに休んでいないのも本当だ。それでも、無理をしていると言われたのは心外で、リクオは鴆の腕から身を起こした。
「……だから、来るなと?」
「会えばおめえが欲しくなる」
 振り向いて放った子供じみた反発に、鴆は動じず、真顔で返した。
「木の芽時に体調が不安定なのは毎年のことだ。この時期ぁ、よくも悪くも極端に転ぶ。悪けりゃ寝込むだけだが、いいならいいでタチが悪ィ」
「どういうことだ?」
「言ったろう? ……おめえが欲しいと」
 鴆らしからぬ謎かけのような言葉を口にしながら、真っ直ぐな視線は衒いなくリクオを捉えた。思わず瞬きを返せば、相手は口の端に笑みを刷く。
「な? 悪いことァ言わねぇ、今夜のところは帰れ」
 時折聞かせる年長者らしい物言いが今日は何故か気持ちに障って、リクオは眉を寄せた。
「……わかんねぇな。おめえがきついってんなら遠慮もするが、」
「違ぇよ、リクオ、」
 あくまで鴆は真面目な声で、睨め付けたリクオの視線を受け止めた。
「オレが言ったのは文字通りの意味だ。春先はそういう季節なんだよ。草木だって獣だって正気じゃなくなる。……花が咲くように、猫が騒ぐように、人も妖も本来は一緒だ。オレはこんな身体の分、影響を受けやすいのかもしれねぇが、」
 伸ばされた腕にもう一度肩を抱き寄せられ、頬と頬とが触れる。
「……ただでさえ、おめえに関しちゃあ、オレは見境なくすってぇのに、」
 呟きとともに抱く腕へと力が込もる。どこか困ったような響きは、それこそ鴆の本心だと容易に知れた。
「これ以上、どうしちまうのか怖ぇんだよ」
 帰れと言いながら偽り切れないのは、らしいと言えばらしい。いつだって鴆は率直で、胸の内を真っ直ぐリクオへとぶつけてくる。
 波立った気持ちは呆気なく収まり、胸の奥がにわかに熱くなった。焦燥にも似た情が込み上げて、目の前の男がただ愛しい。その想いに触れたように、自身の気持ちも思い知らせてやりたいと思う。
「……別に、見境なくしてんのはおめえだけじゃねぇし、今に限ったことでもねぇ」
 身体を離して相手を見据えれば、不意を突かれた表情で鴆が瞬きを返す。
「気遣いはありがてぇが、それより今は自分の心配をすべきなんじゃねぇのか?」
 からかう口調で、リクオは笑ってみせた。鴆の下腹へと手を伸ばし、わざと無造作に触れる。輪郭をもったままの熱を掴まれて、鴆が反射的に呻いた。
「このまま帰るほど薄情なつもりはねぇんだがな」
 笑みを向けたまま身体を返して、リクオは膝を着いた。
「リクオ?」
 戸惑いを残して見上げてくる顔へ、手を触れる。
「なぁ、鴆、」
 親指で、ごくゆっくりと頬を撫ぜる。鴆が微かに喉を上下させた。瞳を覗けば互いに馴染んだ欲情が見えて、気持ちを駆り立てる。
「野暮はなしだ。……二度とは言わせるな」
 返事は待たず、唇を塞いだ。
 抱き合えば正気をなくすのは常のこと。それすら自覚できないほど、見境をなくせばいいと思う。
 我を失って、ただ己を欲しがればいい。手放すことなどあり得ないほど、己なしではいられなくなればいい。
 気がふれるほど、何処にも、彼岸にすら行けぬよう、この身に執着すればいい。
 乾いた感触を味わったのは、一瞬。
 確かめるよう口付けを重ねれば、鴆の舌が唇を割り、滑り込んでくる。今さっきの戸惑いが嘘のように、容赦なく口腔を犯される。舌が絡んで擦れ合う刺激に、容易く身体は昂ぶった。
 軽く触れたかと思うときつく吸われ、思うさま吐息を貪られる。いつのまにか鴆の手に後頭部を抑えられ、逃れることは許されない。
 濡れた感触は互いの熱をあからさまに伝えて、ただ、触れたすべてを奪うことに夢中になった。触れ合うだけの交情なのに、舌と舌とが絡めば身体中を愛撫されるのにも似て、意識が飛びそうになる。
「……、はぁっ、……っ……」
「……っ、リクオ、……」
 幾度も口付けられ、散々息を乱してようやく解放される。
 溢れた唾液が銀糸となり、離れる二人を繋いだ。それすら奪うよう鴆はもう一度リクオの唇を舐め、親指でその端を拭う。
「……ったく、……おめえは、……」
 自身も息を弾ませた鴆に軽く睨まれる。挑むように視線を返せば目と目が合い、ややあって鴆が苦笑を浮かべた。
「……来てくれ、もっと近くに。……リクオ、」
「言われるまでもねぇ」
「帰さねぇからな、覚悟しとけ」
 どこか悔しそうに呟いた鴆に、リクオも笑みを向ける。
「……楽しみだな、鴆」
 促されるまま鴆へと跨れば、すぐに唇を塞がれた。
 濡れたままの感触を味わったのは一瞬。今度はリクオから舌を差し入れれば、頭の芯が痺れるほどきつく吸われた。
 夜風が頬へと吹き付け、花の香りが鼻先を掠めていく。春の夜はまだ始まったばかりだった。

                                       (了.10.02.28.)   

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