静かな夜だった。
 夜風が庭木を揺らし、そのざわめきと虫の声だけが響いていた。開け放した座敷を風が渡り、涼を運ぶ。昼の酷暑は日没と共に遠のき、夜も更けた今は大分過ごしやすい。
 梅雨明け後の急な暑さに、鴆はここ数日体調を崩していたのだったが、ようやく調子が戻り、今夜は夕方から床を払っている。これなら、先日の集まりに出られなかった詫びを入れに、明日にでも本家へ行けるかもしれない。
 一際強く吹いた風に、鴆は文机の調べ物から顔を上げ、視線を庭へと向けた。呼ばれた気がして首を傾げるが、室内にも庭に張り出した廊下にも人気はない。何処かの軒先で、風鈴が澄んだ音をたてた。
 机上の書籍に視線を戻す。中断した箇所を探して目を彷徨わせた、その瞬間。
「……リクオ」
 見知った気配に顔を上げれば、文机のすぐ向かい、胡座に頬杖をついたリクオが、笑みを浮かべていた。
 素の儘であれば、鴆がリクオの訪れを悟らぬはずはない。けれど、リクオが自ら気配を絶てば、何人であれ気付くのは不可能となる。
「ったく、タチ悪ぃ……、驚かせんなよ」
「気付かねぇ方が悪ぃんだろ」
「無茶言うな」
 見ればリクオは、勝手に座布団まで使っている。ご丁寧に、物入れから引っ張り出してきたということだ。
「いっそ、おめえがうちの酒呑んでないのが不思議だよ」
「オレは、じじいみてぇに見境なしじゃねぇからな」
 上がり込んで飯を食ってみれば陰陽師の本家だった、という総大将の自慢を知らない者はない。思わず鴆が口元を緩めれば、リクオも笑みを深くした。
「……上がり込む相手も、自分の欲しいものも、わかってるのさ」
 覗き込むように、視線を据えられる。百鬼を率いては冴え冴えと辺りを睥睨する瞳が、今はからかうように眇められて、鴆だけを映した。
「なあ、鴆?」
「オレだってわかってるぜ?」
 奇妙な対抗心を煽られ、鴆も負けじと言葉を返す。邪魔になった文机を脇へと押しやれば、二人の間を隔てるものは何もなくなった。
「……自分の欲しいもんくらいはな」
 膝を着いて乗り出し、手を伸ばす。誘われるように顔を上げたリクオの頤に指をかけた。
「ぜ……」
 何か言いかけた口を、性急に塞ぐ。
 触れ合わせた唇を吸い、舌でなぞって綻ばせる。深く侵入すれば、熱く濡れた感触はこの上なく甘美で、鴆は早くも身体の奥に不穏な熱が点るのを感じた。舌と舌とが絡み合い、解かれ、誘い、挑まれて、その感覚を追うだけで身体が蕩けてしまいそうだ。
 手を伸ばした瞬間からもう、リクオに溺れている。退こうとする相手を許さず、再度舌を絡めて、見境がないとはもしや自分のことかと思う。今はただ、リクオを味わうことしか考えらない。
 思い知ればいい。どんなに自分が、リクオに欲情するか。どんなにいつも、その身を欲しているか。
 欲しいものなど、ただ一つしかないというのに。
 永い口付けを解けば、リクオは、弾む息を厭うよう目を伏せた。その表情は下腹の熱を煽るのに十分で、顎に掛けたままの指に力が入る。上を向かせて、強引に視線を捕らえた。
「リクオ、」
 もう一度、と身を傾けかけて、押しとどめられる。思わず眉を寄せれば、リクオは口の端を上げ、真っ直ぐな視線を返してきた。舌先の交情で昂ぶっているのは吐息にも露わだが、瞳は強く、鴆を射る。
「……元気そうじゃねぇか」
「おかげさんでな」
 こちらも笑んで応じれば、細めた瞳に揺れたのは、隠し切れない安堵だ。すべてを呑み込み、多くは口にしない気遣いが知れて、胸の奥を掴まれる。
 そう、労りの言葉より、刹那を求めてくれた方がいい。欲してくれれば、この身を深くお前に刻む。手放すことなどできないよう、身も世もなく喘がせ、乱れさせてやる。そうして、ただ共に居ろと命じてくれればいい。命数も病も関係なく、永遠にすべてを渡せと言ってくれればいい。
「……見舞いに来たんだろ、若頭?」
 頤にかけた親指で、濡れた唇をゆっくりとなぞった。
「そんなら、慰めてもらったって罰は当たんねぇよなあ?」
 覗き込んだ瞳に、鴆自身が映っている。先刻の口付けで薄く染まった目元が誘って、触れる指が急く。
「……見舞い、ねぇ?」
 リクオがわずかに首を傾ける。伸ばされた手が、鴆の頬に触れた。
「そんな丁寧なもんのつもりはねぇが、」
 眉を上げてうそぶく表情に、先刻の翳りはもう欠片もない。こめかみを撫でる指先は、それだけで扇情的な、夜の先触れだ。
「それが望みなら、試してみるかい?」
 綺麗な笑みに見惚れたのは一瞬、身を起こしたリクオに肩を突かれ、鴆は後ろへと腰を落とした。その脚の間を割って膝を着いたリクオが、身をかがめ、両腕を鴆の首へと絡める。
 唇が重ねられ、差し入れられた舌が鴆のそれを嬲った。生じた疼きが身体中を駆け巡り、鴆もまた、もっと深くを望んでリクオの頭に手をまわす。
 きつく舌を絡め、熱い息を吐きながら口付けを深くする。互いの唾液が交わって、何処までが自身で何処からが相手かも曖昧に溶けていく。
 夢中で貪れば、同じ激しさでリクオも応じた。身体も気持ちも溺れながら、けれどふと、違和感が掠める。まだ求めてくる相手を宥めるようにして唇を離せば、表情を確かめないうち、その胸に頭を抱きしめられた。
「……鴆、」
 頭上、荒い息の向こうから呼ばれた名が、ひどく切実に響く。
 押し当てられた胸からは、リクオの速い鼓動が直接伝わった。確かめるよう鴆の頭にまわされた掌は、艶っぽい笑みより正直だ。それでも、それならなおさら、自分は見ないふりをすることしかできない。
「……試してみるまでもねぇ」
 失いたくないと思う気持ちは、己も一緒だ。互いにすべてを呑み込み、それでも時折堪えきれず、相手の膚に縋ってしまう。
 背中にまわした掌を、ゆっくりと撫で下ろす。微かに跳ねた身体が愛しくて、鴆はその腰をもどかしく抱いた。
 他の何にも煩わされる暇がないように、リクオのすべてを己で埋め尽くしたい。声が嗄れるまで名前を呼ばせ、身体中余さず口付けて、気を失うほどよがらせれば、リクオも我を忘れるだろうか。
 百鬼を率いる主も、この一刻は己だけに狂えばいい。
「おめえが極上だってことくらい、とうに承知してるさ」
 身体を離して見上げれば、リクオは目を細め、婀娜な笑みを閃かせた。
「……承知、ねェ?」
 面白がる口調で繰り返して、その手が鴆の帯を解く。
「それじゃあ、好きにさせてもらおうか?」

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