「で、何で君がここにいるのか、ボクには全然理解できないのだが」
 心底うんざりした顔をさらにしかめて、玉章は目の前の男に尖った声をあげた。
「はぁ? だから今言っただろ。それに、あんま細けえことを気にするもんじゃねえぜ? 玉ぴっぴ食わせてやるって言ってたじゃねえか」
「そんなことは一言も言っていない」
 即座に否定した玉章に向かって、リクオが器用に片眉を上げる。
「別に、勝手に馳走になってもよかったんだがな。せっかく呼ばれてんなら、挨拶しねえと礼儀にもとるかと思ったまでさ」
「呼んでないと言っているだろう。だいたい、君がそうした下賤な真似を得意としていることは知っているが、まさか四国八十八鬼夜行の本拠地でそれが通用するとでも思っているのか?」
「そんなん、するに決まってんだろ」
 呆れた目付きを返されて、玉章は今日何度目か、こめかみに血が上るのをありありと感じた。
 四国八十八鬼夜行が関東総元締たる奴良組への討ち入りに敗れて以来、両者の間の交流は特にない。隠居した先代と奴良組総大将は旧知の仲だというから、玉章の知らないやりとりがあるのかもしれないが、それにしても、先触れもなく奴良組三代目が訪ねてくる理由にはならないだろう。
 その名の通り、気が付けば座敷に上がり込んでいたぬらりひょんの孫は、用向きを尋ねてものらりくらりと言を左右し、結局、来訪の目的を明らかにはしていない。
 当初、半分くらい奴良組の四国獲りを疑った玉章だったが、どうにもその可能性はなさそうだった。奴良組三代目は、言葉を交わしている間こそ以前通りの傲岸不遜な態度を崩さないが、時折あらぬ方を見ては、らしくなくぼんやりと、遠くを見る目をする。席を外して戻ってきてみれば、溜め息らしきものをつく様さえ見せられて、鬱陶しいことこの上ない。
 真実腑抜けているなら、再度の関東討ち入りもやぶさかではないものの、相手の気掛かりは特定の事柄に限られているようで、言動は至って強腰、隙と言えるほどのものは見当たらない。いずれにしても邸内に居座られて目障りなことに変わりなく、さっさと引き取らせるに限ると玉章は苦渋の決断をした。
「……わかった。玉ぴっぴは食わせてやろう」
 地を這うような声にもリクオはまったく動じず、玉章の傍らの犬に向かって舌を鳴らしている。
「食わせてやるから、――うちの犬に構うな――、食ったら帰れ」
「……」
 聞いているのかいないのか、無心と言ってもよい熱心さで、リクオは犬を呼び寄せようと指を振った。
「食ったら帰るだろうな?」
「誰もそんなこと言ってねえし」
 叫びそうになる己を律して、玉章は自分の背後に犬を引き寄せた。
「うちのに構うなと言っているだろう。――もう一度聞くぞ、何で君はここにいる?」
「……別に、」
 真正面で視線がぶつかって、逸らしたのはリクオの方だった。もう、話を躱す気もないらしい。
「いいじゃねえか、そんなこと」
「人の家に押しかけてきて、よく言えたものだな。……実際、用件はないのだろう、君は」
 無表情のまま黙ったリクオに、玉章は推測の正しさを確信する。
「それならば、何かから逃げてきたか」
 最近、本州で抗争があったという話は聞いていない。また、それほどに深刻な状況なら、友好関係にあるとは言い難い四国には落ちて来ないだろう。
「……だってよ、」
「……」
「……あいつが、あんなこと言うから、」
「……」
「……いや、何でもねえ」
「……」
 聞く限り、リクオの口ぶりはひどく親しい相手を非難するものだった。拗ねていると言ってもいい。
 要は痴話喧嘩のそれだ。
 それきり口籠もり、視線を合わそうとしないリクオに、玉章は以前耳にした一つの噂を思い出した。
 奴良組三代目は、貸元である薬師一派の長と恋仲であるという。
 聞いたときは一笑に付した玉章だったが、目の前の男を見ていれば、辻褄が合うような気がしなくもない。
 犬も食わない、という慣用句が頭を過ぎり、いっそ蹴り出してやろうかと思ったものの、一度言ってしまったことと、家の者にうどんの用意を命じた。
「まったく、何を言われたらわざわざ人の家に転がり込む名目が立つと言うんだ」
「だから、何でもねえって言ってるだろうが」
 睨み返してきたリクオの目付きは剣呑で、気押された玉章は不本意ながら口をつぐむ。
 どうみても、先程漏らした弱気を恥じての不機嫌なのは明らかで、理不尽以外の何者でもないのだが、あろうことか、畏れを感じてしまったのだからどうしようもない。
「……食ったら帰れよ」
「あ、悪ぃな。今夜一晩泊めてくれ」
 何故本能の命じるまま、四の五の言わず最初に蹴り出しておかなかったのか。玉章はこの後、頑なに口は閉じたまま溜め息を繰り返すリクオに、一晩中悩まされることになる。
                                 (10.09.17.)

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