力任せに薬研を使う音が、捩目山に響いていた。
いつものように書見台に向かっていたものの、何かを読むどころではない牛鬼が、とうとう堪りかねて身体ごと振り返る。
「鴆、」
努めて静かに客の名を呼べば、一拍遅れて薬研の音がやんだ。
「……呼んだか、牛鬼?」
常に伝法な口をきく薬師一派の長だが、だからといって機嫌が悪いわけではない。しかし、今夜の鴆は明らかに苛立っており、それを隠そうともしていない。
「お前の仕事に口出しするつもりはないが、……それはもう少し丁寧に扱うものではないのか」
「ああ、心配すんな。この薬扱うときはこのくらいの力加減の方がいいからよ」
牛鬼の遠回しな抗議はまったく通じず、間髪を入れずに言葉を返すと、鴆は再び地獄の臼もかくやという音をたて、薬研を引き始めた。
先刻、突然鴆が訪ねきてから、ずっとこんな調子である。
おおよそ、見当はつく。わかりたくもないが嫌でもわかってしまう状況を察して、牛鬼は溜め息を噛み殺した。
大方、リクオと痴話喧嘩でもしたのだろう。
最初に牛頭丸がその話を仕入れてきたときは、ずいぶんと下司な流言が流れるものだと眉をひそめた。紛う方なき三代目と薬師一派の長が恋仲とは、奴良組を陥れるにしても、もう少しましな嘘を考えられそうなものではないか。
ところが案に相違して、流言どころか根も葉もある立派な事実だったのだから始末が悪い。
それでは貸元に示しが付かない。いざとなれば再び命を賭して諫言を、と覚悟した牛鬼だが、最近はかなりどうでもいい、悟りにも似た心境に至っていた。
何しろ、リクオに隠す気がない。
彼の祖父のこれ見よがしな言動と比べれば可愛らしいものの、人目を忍ばない以上、周知のこととなるのに時間はかからなかった。
本家で、薬鴆堂で、化猫屋で、連れ立つ二人は懇ろな気配を撒き散らしていて、邪魔をしたが最後、馬に蹴られて死ぬのは確実、いやそれ以前に明鏡止水か毒羽の乱舞か、という有様だ。
懸念された貸元たちの反発がさしてないのは救いだが、実際のところ、貸元連中もどうでもよくなってしまったのだろうと牛鬼は思う。
薬師の業を持つ鴆一派は、他の武闘派連中と異なり、奴良組貸元の中でも特異な位置にある。翻って考えれば、リクオと鴆がいかに通じようと、傘下の力関係に影響はない。つまり別に実害もない、という絶好の建前のもと、関わり合いになるのは御免と貸元たちは黙殺を決め込んだわけだった。
牛鬼もそうしたいのは山々だったが、本人の意思とは無関係に、世の中にはできることとできないことがある。
「牛鬼様、ただいま戻りました!」
勢いよく飛び込んできた牛頭丸が、胡散臭げな視線を鴆に投げながら、牛鬼の前に膝を着いた。
「どうやら四国の方に向かったらしいです。見たってヤツの話が幾つか……」
「四国だと!?」
こちらも勢いよく立ち上がった鴆が、厳しい表情で牛頭丸を睨み付ける。
「本当かそれは!?」
「なんだよ? オレが信用できねえってぇのかよ!?」
「んなこと言ってんじゃねえ! なんでリクオが……」
「そんなの、あんたがいちばんわかってんだろうが!! ったく、痴話喧嘩のたびに牛鬼様煩わせやがって」
気まずげに口ごもった鴆に、牛鬼はとうとう大きく溜め息を吐いた。
そうだろうと推し量っている状態と、実際そうだと目の前に突き付けられるのとでは、同じようで、やはり決定的に違う。リクオは来ていないかと、鴆が訪ねて来た瞬間から予想できたことだとしてもだ。
痴話喧嘩のたびに、というのは大袈裟だとしても、実際ささいな諍いの後にリクオが薬鴆堂を飛び出し、捩目山に転がり込んだ過去があるから、鴆もこうして探しに来たわけで、巻き込まれるのはこれが初めてではない。
今度はいったい何が原因なのか、できれば聞かずにやり過ごしたいと願いながら、鴆を見据える。
「鴆、」
「邪魔したな、牛鬼」
気の短い鴆らしく、既に足先は外へと向かっていた。
「リクオの行き先がわかったんだ。行くぜ」
「まあ待て、鴆」
若い者が気持ちのまま急く様は嫌いではないが、やはり短慮は否めない。
「ここより西に奴良組の傘下がいないことはお前も知っているだろう。今動いても、途中で要らぬ諍いを起こすだけだ」
「んなこと言って、リクオは四国へ向かったんだろ。……なんだってあいつ……」
「リクオは四国勢に顔を知られている。先だっての片を付けた本人だ、そう面倒なことにはなるまい。知らぬ顔のお前が先触れもなしに飛び込むのとはわけが違う」
道理を説けば鴆は腑に落ちたようで、大きく息を吐き出した。
「……あいつがどうこうされるって心配してるわけじゃねえよ」
厳しい表情のまま唇を噛んで、鴆はもどかしげに顔をしかめる。
「今のあいつにそんな心配は無用だ。ただ、そうじゃなくて、」
頭に手をやって苛立たしげにかき回す鴆の言葉を、黙って待った。
「今のあいつを、オレが放っときたくない」
鴆の背後でうんざりと舌を出す牛頭丸を目でたしなめつつ、牛鬼も話の流れに不穏を感じとる。
「何をどう誤解したのか知らねえが、オレがリクオのことしか考えられないことくらい、あいつだってわかってるはずだろ」
「鴆、それは、」
「なのに、機嫌を損ねたと思ったら、そのまま薬鴆堂を飛び出して行きやがって、」
半眼になった牛頭丸が、後ずさって部屋を出て行く。
「今もオレの知らないところで、思い違いしたまんま嫌な思いしてるなんて、そんなん、放っとけねえじゃねえか」
「鴆、ともかく、」
「だいたい、今日来たときは上機嫌で、いつにも増して綺麗な顔で笑いやがるから、ついその場で抱きしめちまってよ、」
「……」
「あんときみたいに、今だって四の五の言わせず抱いてやれたら、あいつだって……」
捩目山の夜は無情に更けていった。
(10.09.18.)
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