「鴆、あなた最低」
けほ、と軽く咳き込みながら、それでもはっきりと紫が声をあげた。
「本当に」
細い指を頬にあてて、冷麗も呆れたように頷く。
振り向いたリクオにつられ、鴆も顔を上げた。握ったままの手は、離さない。
「へ?」
間抜けな声をあげたのは淡島だった。
「何がだよ? 今のは惚気じゃねえのか? そもそも冗談だよな?」
同意を求めるよう視線を投げられた雨造も、不思議そうに首を傾げる。
「あなたたちにも困ったものね。……冗談にしても、言っていいことと悪いことがあるでしょう」
手に負えないと言いたげに冷麗が眉をひそめれば、紫が最低、と繰り返す。
「リクオ、今の、」
騒がしくなった外野をよそに、鴆はもう一度リクオを呼んだ。それきり薬鴆堂を出て行った恋人が何に怒ったのか、実は今もってわからない。冷麗たちはわかったようだが、鴆はリクオから聞きたかった。
まだわからないと言ったら、今度はどこまで探しに行けばいいのだろうか。それならそれで仕方ないと思いながら、リクオの手を包む掌に力を込めた。
「何だよ?」
きつい声とともに、リクオが振り返る。挑むような視線を向けられて、けれど鴆はまっすぐに恋人を見つめ返した。ただ見惚れそうになる己を律して、言葉を選ぶ。
「言ってはくれねえか。あのときの何がおめえを怒らせたのか」
「本当にわかんねえのかよ、鴆」
怒っているというよりは、どこか傷付いた表情でリクオは唇を噛んだ。本家ではまず見せないそんな顔に、身体ごと抱きしめたくなるが、かろうじて堪える。
「リクオ、」
「なあ、言っちまえよリクオ」
いつのまにか、二人のすぐ脇に座り込んだ淡島が、宥めるふうに口を挟んだ。
「冷麗たちはああいうけど、オレもわかんねえし。本当はおめえだって、別に怒るようなことはねえって思ってんだろ?」
「あら、」
聞き咎めたらしい冷麗が、珍しく少しだけ尖った声をあげる。
「もう、さっきから。……充分怒っていいことだって言ってるでしょう?」
「淡島はわかってない」
「だから、どういうことなんだよって聞いてるじゃんか」
「オイラーもわかんねえけど?」
「……それなら言ってしまうけれど、」
喧々囂々を終いにするよう、冷麗は溜息を一つ吐いた。詫びる視線でリクオを見やって、話し始める。
「惚れ薬を使って想われてみたいなんて、まるで、相手の心はどうでもいいみたいじゃないの」
隣で紫もこくりと頷く。
「お互いが心から想うから気持ちが通うのに、それを疎かにして、結果だけ望むなんて」
「それはだって、それくらい相手に想われたいってことだろ?」
「だからそれが間違ってるって話でしょう?」
「けど、実際リクオと鴆は付き合ってんだからよ、そこは飛ばしてもいいんじゃねえの?」
「飛ばせるところと飛ばせないところがあるよ」
「あんなの、自分が相手をすごく好きじゃねえと言えないぜ」
「だからって、そんな一方的なこと……」
喧々囂々はひどくなっただけだった。いつのまにか本人たちを置き去りにして、白熱した様相を呈している。
「鴆、」
低めた声で呼ばれると同時に、手首を掴まれる。
「抜けるぞ」
そのまま手を引かれ、皆の脇をすり抜けた。誰も気付かない。屋外へと出れば、気持ちのよい夜風が頬にあたる。先日別れたときからわずかな夜しか経ていないのに、月は確かに満ちて、煌々と光を放っていた。
屋敷から離れたところで手は離され、リクオは手近な木の根元に座り込んだ。鴆も並んで腰を下ろし、相手の横顔を見つめる。
リクオはすぐには口を開かなかった。風が梢を揺らす音を聞いているかのように、まっすぐ前方の闇を見据えている。
ややあって振り向いたときには、見慣れた笑みが口元にあった。
「何て顔してる、鴆、」
目を細めたリクオにからかうよう呼ばれ、鴆は自分が息を殺していたことに気が付いた。
「相手のことしか考えられず、」
軽い口調のまま、リクオが聞いたような言葉を繰り返す。
「会えても、共寝しても、もっと欲しくなるだけ……そんなふうに想われてみたいと、そう言ったな、鴆」
答えを待たず、向けられた挑戦的な笑みは深くなった。
「そんなもん、おめえはとっくに知ってるだろうが。……なのに、能天気なこと言いやがるから」
「……あ、」
頬に血が上るのを自覚すれば、リクオも満足気に笑う。
「ようやくわかったか」
「……、ああ、」
「まだ足りねえとか言いやがるなら、」
「リクオ、」
遮って、首を振った。
愛しさが迫り上がり、動悸を逸らせる。甘やかというよりは、もっと激しいものが胸の内に満ちていく。
頬へと指先で触れれば瞬いて、けれど視線は逸らされず、鴆を見据えた。
やはり、見惚れずにはいらない。
いつもいつも、こうして目の前のただ一人を見ていたのに、自分は何を見ていたのか。
見つめたままゆっくりと撫ぜれば、リクオはとうとう焦れたように顔を伏せた。
「リクオ、」
その名を呼び、ねだる。今になって羞恥をのぼらせたのか、夜目にも頬を染めたのがわかった。
「……おめえはどうなんだ、鴆」
乱暴な口ぶりは、照れ隠しだと知れている。堪らなく、リクオが欲しい。会っていても、抱いていても、もっと。
「そんなこと、おめえは知ってるだろう?」
「違いねえ」
笑い声をあげたリクオの顎をすくい、唇を塞ぐ。
その手が迷うように鴆の肩に触れ、やがて背中へと伸ばされる。自身を抱きしめる腕を感じながら、鴆は久しぶりの恋人を味わった。
(10.09.23.)
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