深夜、馴染んだ気配が庭先へと降り立つ。勝手に口元が綻ぶのを押しとどめながら、鴆は腰を上げた。
変化するようになったリクオは、散歩と称して一人、浮世絵町を見回っている。その途次で、あるいは帰途に、気まぐれのように薬鴆堂へと立ち寄るのもいつしか常のこととなっていた。二人で酒を呑み交わすこともあれば、さまざまに話し込むこともある。
そして、ただ情を交わす夜も、もう数え切れない。
「リクオ、」
障子を開ければ、ちょうどリクオが縁側へ上がるところだった。家主を待たずにくつろぐのはいつものことだが、そのときは、見慣れぬ色が鴆の目の端に引っ掛かった。
「……おめえ、どうしたその脚は?」
知らず、声が剣呑な調子を帯びる。裾から覗くリクオの膚に、細かい切り傷が無数に散っていた。大きな傷はないようだったが、血も滲んで穏やかではない。言われて自身の脚を見下ろし、リクオはバツの悪そうな顔になった。
「何でもねえよ。すぐ消える」
「んなこたぁ、わかってる。そういう問題じゃねえ」
強い口調で返せば、諦めたように肩を竦めた。
「河原で……、河原の草で切ったんだよ。別にどうこうしたわけじゃねぇ」
そのままリクオは座敷へと上がり、傷を隠すよう足を組んでしまう。浮世絵町の外れの河原は土手が草野原になっており、場所によっては好き放題に伸びた植物の蔓やら棘やらに引っ掛からずには歩けない。誰かに傷付けられた訳ではないとわかって、鴆はひとまず安堵した。
「なんで、あんな草っ原入ったんだ。また、誰かの目ん玉でも探してやってたのか?」
「……そんなとこだよ」
少しふてくされた声に、思わず笑みが漏れる。
「ごくろうなこった。ちょっと待ってろ」
水を張った手桶に手拭いを持って鴆が戻ると、リクオは少し顔をしかめた。
「こんな傷、放っとけって。んなわざわざ……」
「面倒がるな。ほら、脚出せ」
言いながら鴆は、リクオを待たずにその脚をとり上げ、布を当てた。脛から足首、甲、そして爪先まで丁寧に拭いてやれば、濡らした手拭いに鮮やかな血の色が滲む。
「……見た目より深いのもあんじゃねぇか」
「そうかい?」
鴆が手早く両の脚をあらためる間も、リクオは居心地悪げに、あらぬ方を向いたままだ。
「手間掛けたな。もう放せって」
「なんだ、おめえ。……何か拙いことでもあんのかよ?」
軽口に、珍しくリクオが憮然とする。
「何でもねぇって。その手ぇどけろ」
答えの代わりに、鴆は手にした脚先へと身をかがめた。視界の端でリクオが珍しく落ち着かない表情を見せたのをよそに、爪先へと舌を這わせる。
「なっ……、鴆、」
リクオの身体が、跳ねた。退こうとした脚を許さず、鴆はなおも相手の指先を口に含んだ。震えを返した膚を感じながら、舌先で嬲る。
「……やめろって、」
口調は言葉を裏切って、常よりも力ない。聞かず、小指をきつく吸ってやれば、膝が大きく戦慄いた。顔を上げた鴆はリクオの脚をつかみ、高く持ち上げる。姿勢を崩したリクオは、両手を後ろへとついた。
「隠そうなんざぁするな」
捧げ持った踝に口付けて、鴆はリクオを睨め付けた。
「つまんねぇこと、取り繕おうとするんじゃねぇよ」
「そんなんじゃあ……」
「似たようなもんだ。面倒かけるからって遠慮されたんじゃ、こっちの立つ瀬がねぇ」
足首から脛へと、掌を這わせる。拭ったはずが再び血を滲ませた傷を、静かになぞった。鼻先を血の匂いが掠める。舌で舐め取れば、確かに鉄の味が広がった。
盗み見た先には、唇を噛んだリクオがいる。ささいな傷など、隠し通すつもりだったのだろう。心配をさせまいとするのも、弱さを見せまいとするのも、上に立つ者の判断として間違ってはいない。けれど、自分に対してそれを許すつもりはなかった。
「そうでなくたって、……おめえの傷は一つ残らずオレが見ねぇと気が済まねぇんだよ」
見た目より深い傷からは、またすぐに血が滲む。尖らせた舌で抉るようになぞれば、リクオの膚は強張りを見せた。
「……鴆、」
生じたであろう痛みに、戸惑う声が落ちる。構わず、鴆は裾の裡へと手を伸ばした。抱えた脚を静かに下ろし、リクオの膝を割って身を進める。
「何があろうと、おめえはおめえでありさえすりゃあいい。だから、」
ゆっくり腿へと指を這わせれば、リクオの脚が応じて震えた。
「……オレには、おめえのすべて、晒しやがれ」
低く囁いた言葉に、リクオが顔を上げる。
「今更、隠すもんなんざぁねぇだろうが」
身を乗り出し、からかう口調で笑みを深くする。間近から見つめ返したリクオは瞬き、得心したのか、今夜初めて表情を緩めた。
「違ぇねぇ。……そんなら、」
引き上げられた口の端が、不敵な表情を作る。浮かべた笑みも艶めかしく、鴆の耳元に唇が寄せられた。
「その手で、晒してもらおうかい」
吐息にくすぐられ、膚が粟立つ。
身を離し、まっすぐ見据えてくるリクオの瞳が、鴆を挑発した。誘われるままに押し倒し、着物の帯を解く。前をはだけ、過日の傷を散らした身体を露わにした。
知らない傷などない。すべて、鴆が診てやったことのあるものばかりだ。無数の傷はリクオの矜恃で、覚悟の証。あらためて目の下におさめれば、身体の芯が熱く昂ぶる。己の主の、主である所以を見せつけられて、欲情しないはずがない。
鼓動が、逸る。幾度、夜を共にしても、リクオを前にすればいつもただ一つのことしか考えられなくなる。
愛撫し、組み伏せ、啼かせるときの恍惚。
口付け、抱きしめ、繋がるときの絶頂。
己の執心は、何より己がわかっている。ただそのすべてが、欲しくて欲しくて堪らない。
これほどまでの餓えを、以前の自分は知らなかった。そして、この後訪れる悦楽も、また。
「鴆、」
見上げてくる視線は揺らがない。組み伏せながらも、支配されているのは自分だといつも思い知る。共犯者の笑みを深くしたリクオは婀娜っぽく、鴆の下腹部が脈を打つ。
ゆっくりと、その膚へ掌を滑らせる。
消えかけた傷跡の残る脇腹を撫で上げてやれば、胸が上下したのがわかった。伸ばされた手が、鴆の頬を撫でる。髪に触れてきた指は無造作で、けれどどうしようもなく持ち主の情欲を伝えた。
急く気持ちを抑えて、脇腹へと顔を伏せる。薄い傷跡を舐めれば、膚が震え、微かに吐息が漏らされた。掌を胸へと這わせ、胸の飾りを強く擦る。捏ねるように親指で弄ってやれば、今度は色めいた声が零れた。
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