宴の途中から姿が見えないと思っていたら、庭の枝垂れ桜の上で一人、盃を手に空を見上げていた。満月にはまだ日があるものの、夜空には雲一つなく、月光に照らされたリクオの横顔がはっきりと見える。
彼方を眺める眼差しは、先刻まで大広間にいた彼とは別人のものだ。
思わず漏らした舌打ちが聞こえたとは思えなかったが、呼ばれたかのようにリクオは振り向き、笑みを向けてきた。
「どうした、鴆。……酒はもういいのか」
切れ長の瞳が、からかう色で細められる。巨木の枝に身体を投げ出したリクオは随分と楽しげで、堪りに堪った苛立ちを持て余した鴆の神経を逆撫でするには十分だった。
「……なんでこんなとこで変化してやがる」
盃まで掲げてみせた相手に、つい声を荒らげる。
「てめえが出ていきゃあ、あんな、……」
皆までは口にせず、鴆は唇を噛んだ。リクオもわかっていないはずはない。途中までとはいえ、彼もその場にいたことに変わりはなく、そもそもこの状況はまったく目新しいものではない。
若頭への不信、不満。今日もリクオは人間の姿で総会に出、貸元らの非難を浴びていた。散会後の酒宴で本人の姿が見えなくなると不満の声はさらに大きくなり、鴆が今夜だけで何度逆上しそうになる己を抑えたかわからない。
「……義理なら、昼のが果たしたろう？」
眉間を険しくしたままの鴆に、リクオが涼しい顔で言葉を返す。
確かに、そんな状況でも総会で総大将から任された案件を思い通りに落着させてしまうのは常のことで、人間のリクオも一筋縄ではいかない相手だと、今なら知っている。鴆自身、彼を認めていない訳ではない。
けれど。
「そういう問題じゃねぇっつってんだろ」
目の前のリクオなら、一瞥ですべてを黙らせるだろう。それがわかっているから、歯がゆさばかりが募った。
百鬼夜行の主となると、言ったのはリクオだ。盃を交わした、鴆のただ一人の主。リクオがそうと決めたのなら、鴆の気持ちも二つとはない。
「……そんなに顔しかめてたんじゃ、飲んだって酔えやしねえだろうが」
身軽に庭へと降り立ったリクオが、悠々と庭を横切ってくる。何気ない口調に気遣いが覗いて、鴆はいからせていた肩の力を抜いた。
「……放っとけ」
「何処行くんだ。部屋はこっちじゃなかったろう」
「ああ、」
言われて、宴の途中、思い立って足を向けた先を思い出す。
「総大将に、先代が置いたままの薬箱があるって聞いてな。中をあらためたいと頼んだら、好きにしていいと」
「何処にあるかわかってんのか」
「一階の納戸と言われた」
廊下へ上がったリクオは少し首を傾げ、思い出したように頷いた。
「こっちだ」
先に立ったリクオの後をついて幾つかの部屋を抜け、母屋の北側にまわった。巨大な板戸を開けると、締め切った部屋特有の冷たい空気が鼻を刺した。
「入れ物の見当はつくのか？」
灯りをつければ、古風な電球の光がぼんやりと部屋を照らし出す。本家らしいと言うべきか、広い空間には無造作に荷物が積まれ、いつの時代のものか定かでないものも目についた。
「多分、見ればわかると思うんだがな」
「見るっつっても、……この通りだからな」
壁際に置かれた長持に寄りかかり、リクオが肩を竦める。その長持も何が入っているのか、大人二、三人が優に入りそうな大きさで、一目で年代物だとわかる。
「仕方ねぇ。端から調べるさ」
「こんな夜更けにか？」
聞き咎めて、リクオは部屋を見回した。
「明日ゆっくり見りゃあいいじゃねぇか」
呆れた顔で、背後の長持を振り返る。その背を向けられ、唐突に、ひどく不穏な衝動が鴆の胸に兆した。
「キリがねぇだろ、これじゃあ。じじいのヤツ、一体何を溜め込んでやがるんだか、」
手慰みのように長持に手を掛け、蓋を開ける。覗き込んだリクオにつられて鴆も踏みだせば、中にはただ闇ばかりだ。一瞥したリクオが小さく息を吐いた。
「そんなに大事なもんなら、付き合うのは構やしねぇが……」
重たげな蓋を両手で支え、慎重な仕草で元通りに閉じる。そうして向き直ろうとしたリクオを、鴆は後ろから抱きすくめた。
「……どうした？」
互いの体温は、既に馴染みのものだ。きつく腕をまわされながらも、リクオの声にはあやすような笑いが滲んだ。
「おめえ、捜し物は、」
「そんなもん、」
そのまま、胸元へと手を差し入れる。直接膚へ触れれば抱いた腰は素直に跳ねて、鴆の気持ちを煽った。
「てめえがいるのに、ンなことしてられっか」
強引に襟元を広げ、胸をまさぐる。指先に触れた突起を摘み、捏ねるように愛撫した。
「……っ、」
身じろいだリクオの首筋に、口付けを落とす。強く吸いながら、胸へ這わせた手も休めはしない。弄る指に反応して尖り始めたそこは、見えずとも朱く染まっていると知れ、やがてリクオの吐息が悦楽に染まり出す。
「……ん……っ」
何もわかっていない者たちの好き勝手な批判に、煮え返った腹が収まらない。ただ一瞥、ただ一声で収めうる軋轢を、何故かリクオは放っている。おおかた、些末事に関わり合うつもりはないといったところだろうが、嫌でも耳に入るそうした声に、鴆の苛立ちは昂じるばかりだった。
今晩とて、あれ以上酒宴にとどまれば己の理性に責任が持てなくなると、薬箱にかこつけて中座してきたのだ。リクオ贔屓と知られている鴆が切れてしまえば、話はさらに面倒になる。
「……らしくねぇな、鴆、」
胸元に差し入れた右手に、リクオの手が重ねられた。煽るように、鴆の手をさらに奥へと導く。
「他ンこと、……考えてんじゃねぇよ」
幾分甘く掠れる声が、鴆を詰る。誘われるまま、さらに深く愛撫の指で膚をたどれば、小さく吐息が零された。
「……オレが考えてんのは、いつだっててめえのことだけだ」
両の腕に再び力を込めて抱きしめれば、リクオの笑んだ気配が伝わった。身体中が熱い。いつだってリクオを前にすれば、ただ我を忘れた。鼓動も、呼吸も、何一つ自分の自由にはならない。
「リクオ、」
呼んだ声は、自分のものながら余裕なく掠れている。今更隠しようなどない。その眼差しが、その声が、鴆を虜にして離さない。なのに願うことは、もっと深く交わりたい、それだけだ。これ以上はあり得ないほど、既に己は囚われているのに。
前にまわした腕はそのまま、頤に指をかけて顔だけで振り向かせる。有無を言わさず、瞬いたリクオの唇を塞いだ。
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