窓を開けると、遠くに聞こえていた通りの喧噪が一際大きくなった。
ここ化猫屋は浮世絵町一番街の中でもっとも繁華な場所にある。道を行く酔客の笑い声、両脇に立ち並ぶ店内での騒ぎ、すべてが渾然一体となって、化猫屋の最上階、鴆のいる一室までのぼってくる。
少し火照る頬に夜風が心地いい。窓から顔を出せば眼下では辛夷が満開で、夜目にも鮮烈な白い花が零れんばかりに咲いていた。
店構えに合わせてしつらえられた庭には、四季折々に客の目を楽しませる樹木や草花が植えられている。見事に枝を広げ、いっぱいに花を付けたその姿は、良太猫の目配りが行き届いている証だろう。
浮世絵町は、鴆の住む辺りより少しだけ花の盛りが早い。本家に顔を出した際、季節の巡りに気付かされることはしばしばで、今日もそうだ。
それに、と鴆は独り口元を緩めた。リクオと出会ってから、日々が過ぎるのが随分と速い。
珍しくここまで出向くことになったのは、本家に化猫組の使いが怪我人の介抱を頼みに来たからだ。夕方の貸元の集まりには良太猫も来ていたから、鴆はまだ本家にいると踏んだらしい。
ただ、変化したリクオが鴆と酒を呑んでいたのは良太猫の誤算だったようで、本家の手を煩わせることをしきりに恐縮していた。リクオはリクオで、貸元の揉め事に余計な差し出口は控えるのが常なのだが、同席していた薬師一派の当主が呼ばれたとあっては知らぬふりもできないということだろう。
幸い怪我人たちの傷は見た目ほど深刻なものでなく、ついでに転がされていた相手方も見てやって、鴆は一足早くその場を引き上げた。既に先方は上の者が来て詫びを入れていたから、今回の件は片付いたも同然だったが、リクオはもう少し良太猫と話していくと後に残っている。
周りのざわめきが響いてはいても、この部屋は静かだった。階下の座敷とは異なり、もともと宿泊に供するために作られているのだろう。床の間も付いた二間続きの部屋は十分に広く、落ち着いたしつらえで調えられている。床柱も合天井も実に立派なもので、あるいは、特別な会合に使われることもあるのかもしれない。一階から数階続く食事処、さらにその上階に位置する賭場までは知る者も多いが、最上階にこうした座敷があるとは鴆も初めて知った。
手元の盃に手を伸ばし、取り上げてから空だと気が付く。良太猫が置いていった極上品の一升瓶はまだまだ中身が残っているものの、何となく気が乗らず、そのまま盃を置く。
独りで手酌も悪くはないが、今夜はもともと本家でリクオと呑んでいたのを中座してきたのだ。程なく来るはずのリクオと一緒の方が、酒も旨いに決まっている。鴆は壁に背を預けると、目を瞑った。
ずっと、酒は独りで呑むのが当たり前だった。今だってそれがつまらないと言うつもりはないし、相変わらず独りで呑む夜もある。それでも、リクオが隣にいる夜を知ってしまった今、もう以前には戻れない。
遠くの方で、よく知った声が響いた。長い廊下を話し声が近付くにつれ、もう一人は良太猫だと知れる。踏み込みのすぐ外の物音に、瞼を開けた。
「鴆、入るぜ」
襖を開けたリクオが、窓辺の鴆を認めて笑みを浮かべる。
「このたびは、うちの者のためにご足労頂きまして、誠にありがとうございました」
傍らの良太猫は、丁寧に頭を下げた。
「構わねぇよ、オレの仕事だ。大したことなくて何よりだった」
「ご一緒のところ、お邪魔をしたとか。代わりにもなりませんが、せめてお帰り前にいささかなりともおくつろぎを」
良太猫が後ろへ合図すると、従ってきた者たちが綺麗に飾られた膳を手際よく並べていく。
「かえって悪いくらいだ、あんまり気ぃ遣ってくれるな。さっきのこれで充分だよ」
「そうだぜ、オレまで邪魔しちまってな」
「とんでもございません!」
もう一度、律儀に頭を下げた良太猫に、リクオが鷹揚に笑う。
「じゃあ、遠慮なくやらせてもらおうか。勝手にやるから、世話はいらねぇよ。まだ客だって残ってるだろう?」
「そういうわけには、」
「おめえの手ぇ煩わせちゃあ、こっちだって不本意だ。遠慮はなしでいこうぜ良太猫」
迷う視線をよこした良太猫に、鴆も頷く。さらに少しばかり逡巡して、良太猫も納得したように頷いた。
「わかりました。それならお言葉に甘えて、階下に戻らせてもらいましょう。どうぞ、ご用がありましたら遠慮なくお呼びを」
「何かあれば呼ぶさ。それまでは放っといてくれて構わねぇよ」
重ねて鴆が言うと、良太猫は恐縮した顔で下がっていった。襖が閉められるのを見送って、リクオが鴆の傍らに腰を下ろす。
「待たせたな」
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