騒がしい気配が近付いてくるのを聞き咎め、リクオは閉じていた瞼を開いた。胡座に片肘を突いたまま、耳を澄ます。
 鴆様、と呼ばわる声は知っている。薬鴆堂の番頭だろう。低く応じているのは間違えようもない、鴆だ。声が近付くにつれ、番頭が鴆の外出を咎め、鴆がそれを宥めているという構図がわかってくる。お身体が、と甲高く張り上げられれば、胸に冷たいものが触れる心地だったが、慣れた様子の鴆が適当に応じているのを聞くにつれ、どうにも既視感が襲ってきた。
 何が、と一瞬考え、思い至って内心頷いたところで、朧車の帳が開けられる。
「リクオ?」
 驚いた鴆に満足して、リクオは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「よう、鴆。邪魔してるぜ」
「おう、……どうした今日は。いや、邪魔も何も、朧車はもともと本家のだろうが。好意に甘えてんのはオレの方だ」
 律儀な物言いは、やはり鴆らしい。
「世話になってんのはお互い様だろうが。揉めてたみてェだが、やっぱ出掛けんのか?」
 尋ねれば、乗り込んできた鴆の顔がしかめられる。
「聞こえてたか。……みっともねェとこ悪かったな。別にどうってことねェんだ、出掛けるさ」
 出してくれ、と鴆が声をあげれば、朧車がふわりと浮き上がった。
「何もなくとも、あいつはいつもああなんだ。いい番頭なんだが、口うるさくていけねぇ」
 それを聞いて、リクオの胸に安堵が落ちる。確かに、見たところ鴆の調子は悪くなさそうだった。不満げな口調ながら面白がる響きも混ざって、鴆が番頭を信頼しているのがわかる。
「口うるさい、か。あの番頭、誰かに似てると思って聞いてたんだが、」
 それだけで腑に落ちたらしい鴆が、口元を緩める。
「カラス天狗にそっくりだな」
「カラス天狗にそっくりだろ」
 重なった声に、目を見交わして笑った。
「カラス天狗も口うるさいと思ってたが、どっちもどっちか」
「まったくな。……どうした、今日は」
 わずかに目を細めて、鴆がリクオを見る。
「真夜中に出掛けるなんざぁ、穏やかじゃねぇと思っただけさ」
「抜かせ。時々朧車借りてる話はしたろうが」
「いつもは夜明け頃って聞いてたからな」
 もちろんリクオは、鴆の用事が薬草の採取だとわかっている。勝手知ったる山で、何ら危険などないことも。ただ、いつもは早朝の外出が今回は珍しく夜間だと知り、同行しようと朧車に忍んできたのだ。
「秘密の場所なのか?」
「そんなたいそうなとこじゃねえよ。仮にそうだとしたって、おめえに隠すものなんかあるわけもねえし」
 無造作に言葉を返しながらも鴆は腕を伸ばし、リクオの頬を親指で撫ぜた。
「ま、来たからには働いてもらわねぇとなぁ」
 目を合わせたまま、掌が輪郭をたどり、指が頤へとかけられる。触れられた膚が熱い。覗き込むようにして瞬いた鴆の笑みが深くなる。
 目を逸らすことはできない。
 いつも、鴆は迷いのない視線でリクオを捉える。
「言われるまでもねェ」
「冗談に決まってんだろ」
 強気の笑みで応じれば、鴆は楽しげに破顔し、触れていた指を放した。離れた体温を名残惜しく思いながらも、欲しがれば際限がなくなるのは目に見えていて、リクオも身体を壁へともたせかけた。
「それにしても、酔狂だな」
 鴆の口調はどことなく嬉しげだ。首を傾げたリクオに、片眉を上げてみせる。
「こんな真冬の真夜中、山ん中に付いて来ようなんざぁ、物好きとしか言いようがねぇだろ」
「その言葉、そっくりそのまま、おめえに返すぜ、鴆」
「オレのは仕事だ。この時期この時刻にしか採れないもんがある以上、仕方ねぇ」
 酔狂だと言いながら、自身はさして苦でもなさそうに鴆は言った。
「それならオレだって似たようなもんだ」
 何に張り合おうというのか自分でもわからぬまま、リクオも言い返す。
「おめえが? 何でだ?」
「鴆が通う山なら、オレも見ておきてぇ。当たり前だろ?」
 目を瞠った鴆は瞬き、ややあって実に楽しそうに肩を揺らした。
「三代目としてってことか?」
「それでもいいけどな。ただ、オレが見てぇんだよ」
「ああ、そいつぁ……」
 鴆の腕がリクオの肩を抱き寄せる。頬を擦り合わせるよう抱かれて、どこか照れた声だけが聞こえた。
「嬉しいこと言ってくれるじゃねえか」

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