道などないに等しい山中を、先に立った鴆は慣れた様子で進んでいく。薬草を採る場所はある程度決まっているようで、時折しゃがみ込み、手にした竹筒に採ったものを納めていた。
 風がないせいか、不思議と暖かな夜だった。時折、どこからか花の香気が漂ってくるのが、余計そう感じさせるのかもしれない。湿った土の匂い、枝葉の青い匂い、倒木の朽ちていく柔らかな匂い……そうしたさまざまな匂いに混じった清澄な花の香は、早くも春を感じさせた。
 雑木林の中から川沿いにしばらく歩くと、少しずつ勾配がきつくなった。鴆はわずかに速度を落としたものの、歩みは止めずに登っていく。斜面を回り込むよう、結構な距離を進んだところで、鴆は不意に振り向いた。
「リクオ。ちょっと見てみろ」
 鴆の立つところまで数歩を進めて、リクオは言われた通りの向きへ顔を向けた。尾根に出たのだろう、眼下は開け、月明かりの下で、暗く折り重なる山の稜線が連なっている。花の香はいっそう強く、鼻をくすぐった。
「さすがにこの時間じゃあ、ちっとわからねえか」
 目を凝らした鴆が、呟く。
「何がだ?」
「右手の手前に見える、山の南斜面な、」
 鴆の指さす方へ、リクオも目を向けた。
「去年人の手が入って、木は全部切り倒された」
 幹に寄りかかるようにして、鴆が珍しく沈んだ声を出す。
「山肌をさらしたところで、何でだかそれっきりだ。……うちの番頭が言うには、景気が悪いもんだから、開発が中断されたんだろうって話だが、どっちにしろ、もうあのあたりはしばらくダメだ」
 悔しそうに顔をしかめて、鴆は振り返った。
「去年も一つ、此処とは違う、ずっと通ってた山が産廃処理場とかになった話はしただろう?」
 リクオは、黙って頷く。
「オレは年寄りどもみたいに昔はよかったって言うつもりはねえよ。いつだって変化はあるし、いいか悪いか、一概には言えねえことだってあるだろう」
 そう言いながらも、鴆は悼むように彼方へと視線をやった。
「ただ、こうも無神経に山を潰されちゃあ、オレとしてはな。住処を追われる奴らも、……消えてく奴らも、また出るだろう」
「鴆……」
 人の世につれ生まれ、消えてゆくのが妖の定めとはいえ、そこに痛みがないわけではない。もう何度も、そうしたことを見てきているのだろう、鴆の口調は懸命に気持ちを堪えていて、気が付けばリクオはその袂を握り締めていた。
「……悪ィ、リクオ。なんだか湿っぽい話になっちまったな」
 振り返った鴆は、済まなそうな笑みを作った。
「ただ、此処もいつまで通えるかわかんねえから、お前に知ってほしかった。……それだけだ」
 話を終わらせるように笑い、今来た道を戻ろうとする鴆を、けれどリクオは離せなかった。
 掴まれたままの袂に気付いて、鴆が足を止める。
「……どうした、リクオ?」
 今、身の内で暴れるものが何なのか、自分でもわからない。
 ただ、自分の知らないところで、一人胸を痛めたのだろう鴆を思うと、堪らなかった。
「どうもしねぇ、けど、」
 どうすれば伝わるだろうか。
 掴んだままだった袂に気付いて、離す。
「リクオ、」
 身体を返した鴆が、静かに呼ぶ。
 顎をすくわれて、眸が合った。
「情けねえ顔すんな、三代目、」
 気を引き立てるような口ぶりで、鴆が口の端を上げた。
「何でもかんでも、一人でできるわけじゃねえって、わかってるだろうが」
「んなこたぁわかってる。そんなんじゃねぇよ」
 子どもにするように諭されて、リクオは憮然と言い返した。
 そうではなくて、自分が今したいのは。
「それなら、何だ、」
 からかうような笑みを浮かべて、鴆が声をひそめる。
「慰めて欲しいのか。それとも、」
 背中へ腕が廻され、抱き寄せられた。
「慰めてくれるのか」

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