夜の中、室内から漏れる仄かな灯りを受け、桜は薄い紅色に光っていた。
 風に揺れて舞い散る花びらを見上げればとてもこの世のものとは思えず、声を立てるのはおろか、杯を呷ることさえ憚られた。  縁側に向いた障子を開け放ったまま、どのくらい二人でそうしていたろうか。空にかかる月がいつしか中天を過ぎ、気付けば風が強くなっていた。
 静かに立ち上がり、縁側から庭に降り立ったリクオに、鴆も立ち上がる。ゆっくりと桜の木に近付いたリクオは、そっと幹に掌を這わせた。
「どうした?」
 低く問えば、振り返らず、微かに首が振られる。
「何でも、ねえよ」
 樹齢も定かではない老木ながら、なお見事に花をつける枝垂れ桜を愛しむよう、掌を滑らせる。
「よく咲いてくれる、と思っただけさ」
 満開の枝が、答えるように花びらを降らす。
 慈しむ声音に、胸の奥が灼けた。
 知っている。目の前にいるのは、すべての妖を率いる運命の者。自分は彼の人のものであっても、彼の人は自分のものではあり得ない。それでも、彼のまなざしが、彼の指先が他者へと向けられれば、鈍い痛みが身を焦がした。
 子どもじみた独占欲。持つべきではない浅ましい想い。
「リクオ」
 それでもとどめることはできず、鴆は思わず呼びかけていた。
 肩越しに振り返ったリクオが、口元に薄く笑みを刷く。何もかも見通すかのような瞳に射竦められて、息を呑んだ。
「……リクオ、」
 二度目は掠れていたかもしれない。けれど、鴆の呼びかけにリクオは笑みを深くし、その身を返した。一歩、二歩、静かに薄紅色の地面を踏んで、視線はまっすぐに鴆を捉えたままだ。
 切れ長の目が心持ち細められ、睨め付けられる。その奥に強い光がよぎった。
 目を逸らすことはできない。そんなことが許されるはずもない。
 視線も、呼吸も、心も、すべてが奪われて、残ったのは身の内の熱だけ。確かに自身から生じているのに容赦なく己を焦がす炎だけが、鴆に残されたものだ。
 ひどく甘い痺れに、知らず、口の端が笑みを作る。
 縁側の脇で、リクオが歩を止めた。からかうような笑みの残像だけを閃かせ、鴆に背を向ける。
「見ろよ、鴆」
 言われるままに視線の先を見やれば、枝が揺れて、また光る花びらを降らせた。吸い込まれそうになるその情景も、けれど己に生じた火照りを冷ますには至らない。
 伸ばした手が触れた肩が、微かに指の先で震える。振り返らないその身体を、鴆は引き寄せた。
「リクオ」
 覗き込むようにして、口付ける。
 最初は、唇を触れ合わせるだけの接吻。感触を確かめたら、静かにその体温を味わう。触れて、離れ、もう一度触れ合わせれば当然それでは足りなくて、後頭部に回した手を引き寄せ、強く唇を押し当てる。
 まだ口付けただけなのに、頭の芯から下腹部までが一斉に波立ち、不穏なざわめきが身体の奥に生じていた。固く結ばれた唇を舌でなぞる。頑なな風情も、二度三度と撫でれば堪えかねたように綻んだ。
「んっ……、」
 濡れた息遣いを心地よく聞いて、鴆は熱い口腔を貪る。
 差し入れた舌をリクオの舌に絡めれば、腕の下で肩が強張るのが伝わった。天地に臆するもののない奴良組若頭が、己の愛撫に感じていると思うと、それだけで血が沸騰しそうになる。絡めた舌をきつく吸い、さらに深く唇を合わせて、吐息のすべてを飲みくだす。濡れた熱の心地よさに頭が痺れ、やっとの思いで顔を離せば、互いの唇から銀の糸が尾を引いた。
 半開きの唇を光らせ、瞼を伏せたリクオはひどく艶めかしい。桜の影が映っているのか、常より白く見えるその顔の頬だけは血の色が差して、含み合った膚の熱さを唇に呼ぶ。
 顎に手をかけ、親指で唇を辿った。誘うように薄く開いたそれに爪先をかければ、濡れた感触に包まれる。
 舌先で吸われ、軽く歯を立てられた。戯れのように含まれた指先を舐られ、否応なしに過日の記憶が身体に立ち返る。
 足先から脳天までを貫く快感。熱く蕩けて、正気も吹き飛ぶ感覚を覚えている身体が、勝手に昂ぶり、下腹部に血が集まる。
 見上げてきた目は、無邪気にも見える笑みを浮かべていた。
「遠慮なんざ、しなくていいんだぜ」
 風が強く、吹いた。
 桜の香を孕み、花びらを散らして、吹き抜けていく。
 長い髪を乱れるままにして、リクオはまっすぐ鴆を見据えたままだ。桜の天辺に十六夜の月がかかり、煌々と夜を照らしている。
「急かすんじゃねえよ」
 言いながらも腕をとれば、引かれるままにリクオは縁側へと上がった。室内にのべられた夜具の上に、その身体を押し倒す。覆い被さるようにして口付け、もう一度、互いの熱が蕩ける感覚を味わった。息を継ぐ間も許さず貪れば、すぐに何も考えられなくなる。
 着物の前をはだけ、誘われるままに噛みついた。腕の下で身体が跳ね、笑んだ気配が伝わる。鴆の短い髪にリクオの指が潜り、あやすようにかき混ぜられた。
 胸にきつい口付けを落とし、丹念に舐る。余裕の表情を崩すことはなくとも、鴆が触れればリクオの身体は従順に震えた。朱く色付いた胸の粒を舌先で突いてやると、髪へと触れてくる指に、すがるように力が込められる。
 着物を引き開けながら、脇腹を唇でたどる。片手でリクオの帯を解き、前を夜気に晒した。常より白く見える膚を掌でなぞる。身じろぐ身体に促されて、幾つも口付けの朱を散らした。
「鴆、」
 熱を孕んだ声が、耳を擽る。
 触れた唇から、滑らせた掌から、切なげな声音を受け止めた耳朶から、リクオの熱を感じる。
「……リクオ」
 触れるだけで火傷しそうだ、と思う。それとも、これは鴆自身の熱なのか。身の内に滾る疼きが身体を呑み込み、指先から下腹部まで甘く痺れさせた。

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