温かいものに抱かれていた。
 馴染みのある、慕わしい匂いに包まれ、静かに揺られている。
 と思うと、その温かさはゆっくりと離れて、冷たいものへと身を横たえられた。よく知った指が額をかき上げ、何かが柔らかく触れる。夢うつつの中、離れていく気配が名残惜しくて、リクオは咄嗟に手を伸ばした。
「リクオ?」
 真っ先に目に入ったのは、驚いた表情の鴆。一瞬遅れて、いつもの薬鴆堂の一室だと理解する。仰向けに寝かされた身体の下には冷たい夜具の感触があった。
 室内は灯りを落とされ、縁側へと開け放たれた方だけがぼんやりと明るい。見慣れた室内にかえって夢かうつつか判然とせず、リクオは顔をしかめた。
「……鴆?」
 覗き込む格好の相手に問えば、鴆は面白がる風情で目を細めた。
「珍しいな、おめえが寝惚けるなんざぁ、」
 目の前で、鴆がその腕をかざす。見せられて初めて、リクオは自分が彼の腕を掴んでいることに気が付いた。
 放せば微かに手が痺れて、今更ながらきつく力を込めていたと知れる。
「っと、悪ィ」
「構わねぇさ、このくらい。こっちこそ、起こさねぇようにと思ってたのに悪かった」
「いや。……ああ、縁側から、」
 いつものように、酒を酌み交わしていたことを思い出す。今夜はずいぶんと春めいて、酒も旨く、ひどく気分が良かった。
「運んでくれたのか」
「風が冷たくなってきたしな」
 足元の夜具をリクオにかけながら、鴆がいたわる調子で言う。
「ちょうどいいから、一眠りしていけ。おめえが眠り込んじまうなんて珍しいだろ」
「いや、もう十分だ」 
「四半時も経ってないぜ?」
 気遣わしげな声には構わず、身を起こす。相手の袖を取り、顔を埋めた。夢とうつつが繋がる。自身を抱いていた、よく知った匂い。
「リクオ?」
「夢の中でもわかるもんだな。……おめえの匂いがした」
「オレの?」
 もう片袖に鼻を当てて、鴆が眉を寄せる。
「……オレは慣れちまってるから、よくわかんねぇんだが……、気になるか?」
「……気になる?」 
「おめえが言ってんのは……オレんとこの薬の匂いだろう。ひっでぇ匂いの煎じ薬も作ってるし、嫌じゃねぇかと」
「莫迦か」
 袖から顔を上げ、リクオは鴆の顔を軽く睨んだ。
「嫌だなんて思ったことは一度もねぇよ。……そうじゃなくて、」
 首へと腕を廻し、耳元に顔を寄せる。
「おめえの匂いが好きだって話だろ。……夢でも、」
 まるで香を焚きしめたように、常に鴆がまとう匂い。薬師という職を体現するそれは、けれどリクオにとってそれ以上のものだ。
「うつつでも」
 馴染んだ匂いは、鴆と過ごした時間そのもの。記憶が立ち返り、情も身体も否応なく揺さぶられる。
 夢の中で感じたとなれば尚のこと。
「嬉しいこといってくれるじゃねぇか」
 鴆がリクオの背に腕を廻す。じゃれつくように頬と頬とを擦り合わされて、リクオは深く、夢と同じ匂いを吸い込んだ。鴆らしい、無造作な所作。けれどそうして呼び覚まされるのは、鮮やかに身体に刻まれた交情の記憶だ。
「夢でもうつつでも、オレを呼んでくれるのかぃ?」
 軽口を装って囁かれた言葉が、誘っている。否やがあるはずもなく、リクオは鴆を抱く腕を強くした。
「そうさ、鴆、」
 身体の奥で、熱が灯る。背を撫ぜる掌に欲情を覚えて、零れそうになる吐息を噛み殺した。
「おめえが呼ばせてくれるなら、な」
「ああ。オレの名前しか呼ばせねぇぜ?」
 喉の奥で笑って、鴆はもう一度強くリクオを抱くと、身体を離した。顔を上げれば両手で頬を包まれ、目の前から見据えられる。
「……鴆?」
 少し眉を寄せたまま、鴆の視線は揺らがない。何を想うのかと名前を呼んで、けれどリクオも、そのまま鴆の瞳から目を離せなくなる。
 情欲を孕みながらも、真摯な鴆の眼差し。胸を鷲掴むその強さに、身じろぎもできない。
 顔を合わせるのはさほど珍しいことではないのに、あらためて見つめ、見つめられれば、それだけで苦しくなった。こんな気持ちが、いつから自分の中にあったのだろう。真っ直ぐに鴆を乞う熱、淫らな不穏、そして時に、足元すら覚束なくなる不安が胸の内でせめぎ合う。
 大切だと思うほどに苦しさも増して、誰とも、鴆とも分かち合えないもどかしさは持て余すしか術がない。
「いつも、……そうやっておめえは、」
 鴆の低い呟きは独り言めいて、空耳のように消えた。強い感情の気配がありながら、皆までは言わず、呑み込まれる。
 鴆もまた、すべてを晒すつもりはないのだろう。瞬きだけを返せば、細められた目に笑みが浮かぶ。
「リクオ、」
 呼ばれた名前には、今度ははっきりと欲望の気配があった。知らず、背筋に震えが走る。鴆の匂いに包まれただけで、鴆に名前を呼ばれただけで、もうこんなにも昂ぶってしまう。
 目を閉じれば、唇を塞がれた。
 触れ合わせるだけの口付けから、時を置かず、遠慮のない舌が滑り込んできた。自分のものではない熱が口腔をなぞり、舌と舌とを絡め合えば、早くも頭の芯が痺れるような陶然に支配される。
 与えられる快感だけでは、もう満足できなかった。自らも舌を差し入れ、同じように愛撫を返す。濡れた柔らかな部分を交えれば、この後の行為が膚に立ち返って、身体中が体温を上げる。鴆が微かに喘ぎを零し、リクオは自身が呼び起こした昂揚を露わに知らされた。
 唇を合わせながら、鴆の手は首筋から肩へと滑っていく。そのまま片手は帯を解きにかかり、溢れた唾液を拭うよう、鴆の唇も膚を辿った。顎から首筋、鎖骨、そして襟を寛げられた胸元へと朱を散らす。
「……っ、ん……」
 尖らせた舌が胸の粒を抉り、思わずリクオは声を漏らした。かがんだ鴆の背から、笑んだ気配が伝わる。わざと濡れた音で吸われて羞恥が頬に上ったものの、すぐに意識はその快感を追う方に夢中になった。
 身体の芯を直接撫ぜられたような疼きに、全身が勝手に跳ねる。せめてものよすがに鴆の肩を抱けば、責める舌遣いもいっそうきつくなった。
「……っ、あ、ぁっ……」
「まだ呼んではくれねぇのか、リクオ?」
 朱く勃ち上がった胸の飾りを、舌の上で転がすように舐られる。そうした鴆の所作すべてが、腰の奥へ不埒な熱を溜めていく。
「……ん、は、ぁっ……っ、……ぜ、んっ……、」
 既に肩からも着物は落とされ、ただ腕を通しているだけだ。剥き出しになった膚へ、指と舌とが愛撫を施す。
 熱を上げた身体は思わせぶりに滑る指だけで悦楽を生じ、背を震わせる。己を追い詰める相手の頭をかき抱いて、リクオは掠れた声をあげた。
 幾夜を共にして、彼の膚にも匂いにも馴染んでいるのに、互いの欲情に慣れることがないのは何故だろう。
 口付けひとつ、愛撫ひとつでこんなにも呆気なく理性が飛ぶ。ただ鴆を感じ、鴆を悦ばせたい。それしか考えられず、情欲ばかりが膨れ上がって翻弄される。
 誰かを欲しいと思う気持ちに、果てはあるのだろうか。
 呼ばれた自身の名に満足したように、鴆は身を起こし、ついばむような口付けを落とした。目を合わせれば、物騒な笑みが見下ろしてくる。鴆もまた、正直な欲望を隠しもせずリクオの着物を大きくはだけると、下腹へと手を伸ばした。

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