よく知る気配を感じて、鴆は書面から顔を上げた。
 リクオが何の前触れもなく薬鴆堂の庭に降り立つのは、さして珍しいことではない。間違えようのないその気配は、けれど常とは明らかに違って、鴆は眉間を険しくした。
「どうしたリクオ」
 素早く立って障子を開ければ、庭先で待っていたかのようなリクオと目が合った。立ち尽くしたまま、少し困ったように口元を歪める顔には、軽い擦り傷が付いている。ひやりとしたものの、他に大した怪我はなさそうで、鴆は身構えた身体から力を抜いた。
 いつもは勝手に上がり込むものを、寒空の下、ためらう素振りを見せているのはその傷と関係があるのだろうか。そしておそらくは、この常ならぬ気配とも。
 殺気のようでいて正確には違う、強いて言えば昂ぶりの残滓といったところか。何処か途方に暮れた表情と、物騒な気配のそぐわなさは鴆の胸を騒がせたが、リクオが無事なら他の事情は些事に過ぎない。
「ずいぶん剣呑な気ィじゃねえか」
 軽い口調で揶揄してやれば、やっと小さく笑みが返された。それでも庭先から動く素振りはなく、焦れた鴆は庭へと降り立つ。
 一月の夜気に身震いが起きて、急かされるままリクオへと歩み寄った。頬へと指を伸ばせば思った以上に冷え切っていて、思わず両掌で包み込む。リクオは一瞬、驚いた表情で眉を上げ、けれどすぐ、身を委ねるかのように瞼が閉じられた。
 部屋からの明かりが、目元を淡く染めたリクオを照らす。
 冷たい掌が、鴆の手へと重ねられた。口の端を微かに上げ、掌へ頬擦りを返した情人に、否応なく見惚れてしまう。
「おめえ、……リクオ、」
 冷たい指先は、まるで誘うようだ。
 小さく首を傾げた所作はひどく艶めかしく、鴆は声を掠れさせる。呼ばれた名に応えるよう開かれた眸が鴆を映し、熱っぽさを湛えて瞬いた。
 身体の芯が、大きく脈を打つ。
 頬が、熱く火照る。
 何故、との問いは喉の奥に引っ掛かったままだ。
「……ったく、こんなに冷たくなって、なァに呆けたみてえに突っ立ってやがる」
 その背を抱き竦めてしまわなかっのは、リクオにまとわりつく迷いのせいだ。らしくなく、何かにためらう相手を睨んで、鴆の声はつい大きくなった。
「ほら、さっさと来い」
 乱暴に手首を掴んで、そのまま座敷へと手を引いた。存外素直に付いてきたリクオを部屋でいちばん暖かい場所に座らせ、大きく息を吐く。


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