明るい部屋に入れば、頬の擦り傷は庭先で見たよりずっと多く、鴆は睨むように相手を見つめた。
「何処ぞで出入りでもあったか」
「……まあ、そんなもんだ」
「どっか怪我ぁ隠してねぇだろうな」
「そんなヘマしねえよ。だいたい鴆に隠したって仕方ねぇだろうが」
「おめえは自覚無しに意地張るからタチ悪ィんだよ」
 憎まれ口とともにリクオにも勝ち気な笑みが戻り、鴆も口元を緩めた。
「いま、何か温かいもん持ってこさせ……」
「……確かめろよ。そう言うなら」
 二人の声がぶつかって、踵を返そうとした鴆の足を止めた。からかうような声音と裏腹に、気が付けばリクオの手は鴆の着物の裾を掴んでいる。
「リクオ?」
 振り向くと、見上げてくる顔から笑みが消えた。残ったのは、どこか縋るような眼差しだ。
「何もいらねえ……から。……誰も呼ぶな」
 言ってしまってから我に返ったのか、眸を伏せたリクオが頬に朱をのぼらせる。滅多に聞かない懇願にも似た声音は、鴆の胸を不穏に揺さぶった。
「おめえ、やっぱ何処か……」
「そうじゃねえ」
 きつい声で遮ったリクオが、唇を噛む。わずかにためらい、今度はまっすぐに鴆を見た。
「……猩影を鬼纏った」
「猩影と鬼纏を?」
 頷いたリクオの顔を覗き込んで、鴆は片膝立ちに身を落とした。
「そんな厄介な相手だったのか?」
「猩影がいなけりゃちっと面倒だったけどな。そっちの片ぁ付いてる」
 眉を顰めた鴆に、リクオは首を振った。
「けど、」
「……けど?」
「鬼纏を解いても、……身体が熱くて、」
 言葉を選ぶよう薄く開いたままの唇を、艶めかしく舌がなぞる。
「滾った血が、治まらねぇ。……今だって、ずっと、」
 切実な声に、すぐさま抱きしめたい衝動を堪え、鴆は黙って待った。なおためらい、それでも思い切るよう、リクオが口ごもりながら言葉を続ける。
「……ずっと、鴆の、……おめえのことばかり思い出して、……気が付いたらここに来てた」
 目を瞠った鴆に相手は気付かない。自嘲を聞かせて、リクオは眸を伏せた。
「自分の身体が……自分のじゃねぇみてえだ。……今までこんなことなかったのに、どうしちまったのかわからねぇ」
 その身を持て余すのか、両腕で自らを抱く。俯いた顔の上で、睫毛が微かに震えた。
 強い視線が伏せられると、整った顔は憂いの風情となる。鴆は壊れものに触れる心地で、その頬へと指を這わせた。反射的に身を竦ませたリクオが、ゆっくりと顔を上げる。間近に眸を合わせれば、一心な視線が返された。
「……鴆、」
「っとに、タチ悪ィ、」
 口の中で呟いて、リクオの肩を抱く。頬と頬とを擦り合わせるようにして、耳元に唇を寄せた。
 敵わない、と思う。
 言葉一つ、視線一つ、吐息一つ、あるいは其処にいるだけで、リクオは鴆を狂おしくする。
「そんなにオレを嬉しがらせて、それこそどうなっちまうかわかってんのか、おめえは」
「……嬉しがらせて?」 
 低く囁けば、リクオが戸惑った声を返す。
「そんなん、おめえがオレのこと、……思ってくれてるって話じゃねえか」
 言い聞かせる声音で、廻した手へと力を込めた。いまだ冷たいその髪を撫でてやると、鴆の腕の中、強張っていたリクオの身体から少しずつ力が抜けていく。
「戦いになれば血が滾るのは、あたりめぇのことだ」
 静かに鴆は言葉を続けた。
「しかも鬼纏をすれば、全部取っ払った、抜き身の己も同じだろう」
 双方に絶対の信頼があって初めて可能になるという鬼纏。畏を預け、あるいは纏う行為は互いに身を重ねるに等しくて、限界まで身体を昂ぶらせる。
「オレだって知ってる、あのときの感覚は」
 自身が解き放った畏が、リクオの意志となる。己がリクオの一部となる一方、己の中にもリクオを感じる、特異な一瞬。ぎりぎりの戦いの最中、互いを距てる距離を飛び越え、畏を、魂を重ねるあの瞬間。
「猛った身体が熱くなるのも、滾った気が行き場を探しておめえをけしかけるのも、おかしいことじゃねぇ」
 似ているのだ、鬼纏のもたらす刹那は。交情に我を忘れて、身体を貫く悦楽と。リクオを抱いて、蕩ける熱を味わう昂奮と。
「京都のときは、正直、欠片も余裕がなかったからそうはならなかったんだろうが、今日は片ァ付けちまったんだろう? おめえの血が治まらなくても、不思議はねぇ」
 腕の中のリクオを、鴆はもう一度強く抱いた。
「だから、嬉しいってんだよ。おめえの……ここが、」
 名残惜しく身体を離して、情人の心の臓を指の背で小突く。
「オレを欲しがってる……そういうことだ」
 思わせぶりな笑みで、頬を両掌で挟んでやれば、案の定、目元を染めたリクオに睨め付けられる。
「そんなん……それこそ、わかってることじゃねえか。今更何言ってやがる」
 開き直った物言いは、照れ隠しだと明らかだ。顔を背けようとするリクオを許さず、鴆は低く笑った。
「今更だろうが何だろうが、嬉しいことにかわりはねえさ。……特にこんな、滅多に聞けねぇ素直な言い様が聞けた日にはな」
「鴆、オレは……」
 紅潮したリクオは艶めかしさを増して、もう、鴆は待てなかった。


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