熱を持った頭が鈍く疼いて、鴆は目を閉じた。隣で喋る番頭の話もさっきからほとんど聞き流している状態だ。もっとも、彼を信頼しているからすべて任せておけば大丈夫だという気持ちもある。
「……では鴆様、薬のことについては今ご報告した通りでよろしいですか」
「おう、任せたぜ」
 短く答えただけでも掠れた声が不快で顔をしかめる。頭も痛いが、喉も腫れている。ついでにいえば鼻もやられているし、身体中がふわふわと熱っぽい。
「それでは、」
 番頭が腰を上げるのを、ぼんやりと見やる。布団に身体を横たえるのも億劫だ、と思ったところで、見知った気配を部屋の外に感じた。まずい、と思った次の瞬間には勢いよく障子が開いて、顔を出したリクオと目が合う。
 薬鴆堂にほぼ自由に出入りしている三代目は、布団に身を起こした鴆を見て、息を呑んだようだった。この時間に床をとっていることなど滅多にないから、きっと驚かせただろう。すぐにいつもの涼しい顔で片眉を上げて見せたが、それこそ心配を悟らせまいとするリクオらしい気遣いだ。
 リクオ様、とすかさず立ち上がり、遮るように立った番頭を無視して、リクオはまっすぐ枕元に歩を進めた。胡座に腰を落とし、鴆の顔を覗き込む。
「悪ぃ、邪魔しちまったか」
「んなことぁねえが、」
 いつであれ、リクオの来訪は嬉しいことに変わりない。横になることすら面倒だった身の不調も、リクオの顔を見れば何処かに遠のいた気すらした。それでも今日は間が悪いと言わざるを得ず、鴆は気付かれないよう強いて笑みを浮かべた。
「みっともねえとこ見せちまったな」
 掠れた声しか出ない喉がもどかしい。小さく空咳をしては口を開けるが、腫れた喉が痛んだだけだ。
「……いつもの不調じゃねえのか」
 あっさりと、リクオは鴆の懸念を衝いてきた。常の不調を見ていれば、気付くのは当たり前だ。半ばこの後の展開を諦め、それでも鴆は未練がましく言葉を探した。
「あー……、そうじゃねえのは確かだな……」
 怪訝な表情に向かって、歯切れ悪く頷く。
 リクオの手が額へと伸ばされ、冷たい指が触れた。普段からリクオの体温は鴆より低いが、火照った身体にその指先はとても気持ちよくて、そのまま身を預けたい衝動に駆られる。
 目を閉じかけた鴆を、けれどリクオの一言が遮った。
「……風邪じゃねえのか、鴆」
「……人と妖怪は違うって言ったろうが。そりゃあ人がかかるもんだ」
「って言ったってなあ」
 納得しかねる様子のリクオから、視線を逸らす。まだ言い繕えるだろうかと思ううちに咳が出て、ひとしきり咳込むと、もう言い逃れも難しい。
「……どう見たってオレの風邪がうつったんじゃねえか」
 遠慮がちに背に触れながら、今度はリクオもはっきりと顔をしかめた。
「いつからこんなになってる。うちに来て、オレを看てくれたときうつったんだろう?」
「別におめえのって訳じゃあ……」
「人と妖怪が違うってんなら、それはオレの風邪だろうが」
 自身が原因かと、リクオが苦々しい声になる。
 知れば責任を感じるだろうとわかっていた。隠せるものなら隠したかったのは、だからだ。気にするなと伝えたくて、けれどただでさえ熱でぼんやりした頭ではうまく言葉が出てこない。
「まあ、そうかもしれねえが……」
「リクオ様、」
 とぼけた声で割って入ったのは、脇に控えたままの番頭だった。
「鴆様は確かに体調がよくありませんでしたが、ひどくされたのは今日がご多忙だったからですよ」
「何だって?」
「つまり、リクオ様が気になさっている風邪は大した問題ではなく、今の状態は鴆様の不養生から来ているという話です」
「ああ、……そうだぜリクオ」
 随分な言われようだとも思ったが、渡りに船と鴆は話を継いだ。
「だからおめえの風邪かどうかはわからねえし、」
「本日は何せ、いつにもましてお客様が多くて無理をなさいましたからな。お疲れでも致し方ありません」
 滑らかに後を続けた番頭に頷けば、リクオは少し呆れたように目を瞠り、次いで仕方ないとでも言いたげに口元を緩めた。
「客? 患者か?」
「そうではございません」
 思わせぶりに番頭は首を振り、リクオに怪訝な顔をさせる。
「どういうことだ?」
「今日の客は……」
「本日はバレンタインでございますからな!」
 主を差し置いて声を張り上げた蛙が、何故か得意気に胸まで張る。
「……バレンタイン?」
 すっかり毒気を抜かれた様子で、リクオは鸚鵡返しにそれを繰り返した。
「バレンタインが何だって?」
「そんなの決まっておりましょう」
 蛙がますます反り返る。どうも話は思ってもいない方へ向かっていたが、何処で間違ったのか、既に鴆には見当がつかない。
「バレンタインは女子が好いた相手にチョコレートを渡す日ですから!」
「……それで鴆に来客かい?」
 面白そうに口の端を歪めて、リクオが首を傾げた。
「朝から引きも切らずですよ!」
「ふうん、それの相手で調子を崩したと、」
「ええ、客人はおかげさまですが、度を過ぎると対応するのも大変でございますから」
 蛙は、もっともらしく溜息まで吐いた。
「無理して、わざわざ座敷で相手してたってえのか」
「それはやはり、皆様方が鴆様に直接お渡ししたいとおっしゃいますから。年に一度のことですし」
「おいおい、いい加減にしろお前も、」
 これ以上放っておくのは憚られて、鴆は出ない声を張り上げた。



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