「……」
「……」
 沈黙が、落ちる。番頭はあくまで大真面目だ。
「鴆様?」
「……おい、何だって……」
「お二人が仲睦まじくていらっしゃるのはわかっておりますから、閨の話ですよこれは」
「……それは何だ、閨だと何か問題があるみてぇな……いや、違う、そういう話じゃねえな……、」
 どこから文句をつければいいのか見失って、鴆は投げ遣りな声を聞かせた。
「今、問題があるかどうかは存じませんが、」
「ねぇよ。……今もこれまでもこれからも、ンなもんねぇし」
「本当に、閨で十分リクオ様を満足させておいでなのですか?」
 会話を遮った主を堂々と無視して、番頭は首を傾げてみせた。
「……」
「……」
 返す言葉もなく、鴆はそのまま、相手の顔を見つめた。
 一方、番頭は主の様子など気付かぬふうで、返事を促すよう、身を乗り出す。しばしの沈黙の後、ようやく鴆は我に返った。
「……勘弁してくれ……」
「それは自信がないと……」
「違ぇ!」
 一体全体、何故こんな話になっているのか。
 ひと思いに相手を蹴り出したい衝動を抑えて、鴆はやっと相手の言葉を遮った。
「……なんでそんな話になってやがる、もういい。リクオとのことに口を出すな」
「ですが、」
 呻くように呟いたものの、微塵もめげた様子なく、番頭は畳みかけた。
「今以上に情事がよくなって、困ることなどございませんよ」
「……」
 大きく肩で息をつき、鴆は片膝を立てて頬杖をついた。聞いてやるだけなら、別に実害はない。
「……それで? だからどうしろってんだ?」
 呆れた声も気にならないのか満足気に頷いて、番頭は声をひそめた。
「薬師一派に伝えられる、秘伝の薬があるではありませんか」
「……ああ、」
 そう言われれば、相手の言わんとしていることは察せられて、鴆も頷く。
「媚薬ってやつか」
「そうです。つい先日に、」
「そういや、作り直したんだったな。処方しねえのに、何であんなのが常備の棚に入ってるんだか」
 先代に倣って置いてはいるものの、目にするたび疑問に思っていた薬の存在を指摘され、鴆は眉を顰めた。
「なんでも、自ら昂ぶって身の熱を持て余し、淫らに相手を求める秘薬だそうではありませんか」
「そう伝わっちゃあいるが、……どう聞いたって胡散臭ぇだろう」
「先代譲りの秘伝では?」
「先代か先々代のどっちか、な。まあ、組成見りぉあ、何でそういう効能にされてるのかも、わからなくはねぇが、」
「お試しになればよろしいのです」
 すました顔で、番頭が当然のように言う。
「いずれにしろ、薬師一派の秘薬であれば、身体に悪いことはございませんでしょう」
「そりゃあそうだが、オレはリクオにあんなもん使う気はないぜ」
「何故です?」
「何故って……、お前そりゃあ、そんなもん使わなくたって……」
「常なら処方もしないものを常備しておくのは、こういうときのためではございませんか。鴆様は、リクオ様をもっとよくして差し上げたいとは思いませんので?」
「……なっ……、……」
 およそ閨の話をしているとは思えない無頓着さでそう言うと、番頭は再び諭す顔つきになった。
「やきもちにしても、悪いことにはなりませんでしたでしょう? リクオ様の知らない面を見られると思えばよいではありませんか」
「……知らない、ねえ。そりゃまた、ずいぶん上手いこと言ったもんだな」
「そんなもの使わずともとおっしゃいますが、使えばもっと麗しい姿を見られるかもしれないんですよ」
「……」
 番頭から視線を外して、鴆はあらぬ方を見遣った。
 いま以上に麗しいリクオなど。
 顔をしかめて、額に手をやる。
 勘弁してくれ、と思う。
 そんなもの、見たいに決まっていた。
「明日はバレンタインの御礼に浮世絵町にいらっしゃいますね?」
「あ? ……ああ、」
「本家の女衆には、くれぐれもよく御礼を……」
 適当に相槌を打つうちに、番頭の声は意識から遠ざかる。
 問題の薬は、話に出た通り、最近調合したばかりだった。
 材料がわかっているのだから、おおよその薬効は想像がつく。とはいえ、複数の素材が組み合わさった場合、良くも悪くも思わぬ効果を生むことはままあった。それが薬師の腕の見せどころでもあり、一派の者がしたことであれば間違いはないのだろうが、作用の内実はしかとはわからない。そもそも、半妖ですらないリクオに何がどう効くのか、推測の域を出るものではなかった。
 いつのまにか、薬を用いることが前提になりかけていて、鴆は慌てて意識を引き戻す。
 いまの二人の関係に不足などなく、それはリクオも同じ想いだと思う。互いを信じて己を委ね、情を交わすなかで心を充たし合う。そんな交情に、これ以上の何かがあるはずもない。
 ないのだが。
 リクオが自ら鴆を求めるという想像はいかんせん抗い難く、容易に脳裏を去りそうになかった。
 率直でこそあれ、初心なところを残したリクオは、そのときどんな顔を見せるだろう。
 昂ぶった自身を堪えきれず、鴆を呼ぶだろうか。あるいは、願いを口にすること叶わず、自身の指を汚すだろうか。
 表情ひとつ、仕草ひとつで鴆を荒ぶらせるリクオは、そのときどんなまなざしで、どんな声で、己の熱を訴えるのか。
 既に十分感じやすい身体を持て余し、切なげに喘ぐ様は、どんなにか艶めかしいだろう。
 恥じらう余裕を失って鴆を欲しがるとき、どれほど淫らに啼くだろう。
 そして、箍が外れた悦楽のなか、鴆の名を呼ぶリクオはどれほど愛しいことだろう。


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