「……鴆様。……鴆様、」
 我に返ると、番頭がすました顔のまま傍らに控えていた。
「明日のこちらからの言伝の件、くれぐれもお願いいたしますね。それから、そのだらしなく緩んだ口元はどうにかになさって下さいまし」
「……だらしないたぁ、仮にも一派の頭に向かってひどい言い草じゃねぇか?」
「念のため、拭っておいた方がよろしいかと存じますよ」
 憮然として顎に手をやった鴆に軽く頭を下げて、番頭が立ち上がる。呆れた顔の一つでも見せればいいものを、こうも悟りきった態度をとられては、かえってやりきれないことこの上ない。部屋を出て行く後ろ姿に大人げなく舌を出せば、唐突に相手は振り返った。
「件の秘薬は、本家への御礼の品の隣に出しておきましたので、何とぞお忘れなきよう」
 居たたまれない気持ちになりながらも、鴆は、自分が明日秘薬を忍ばせていくだろうことを認めざるを得なかった。



「リクオ!」
 翌日、本家を訪れた鴆は、桜の樹上に相手の姿を認め、声をあげた。
 既に気付いていたらしいリクオが慣れた所作で身を翻し、庭へと降り立つ。
 本当のところ一刻たりとも離したくない情人は今夜も美しく、鴆の口元は自ずと緩んだ。
 もともと整った顔立ちはいつのまにかすっかり大人びて、艶麗な雰囲気は増す一方だ。最近は所作ひとつ、まなざしひとつにも色気が滲んで、擦れ違う者は皆、目を奪われるとの評判も耳に入ってくる。
 番頭に言われるまでもなく、実のところ鴆は気が気でない。いっそ薬鴆堂に囲っておきたいほどなのだが、一方、立派な三代目として振る舞うリクオこそ鴆が望んだ姿であって、いずれにしても、無粋な輩が寄ってこないよう睨みをきかせるくらいしかできることはない。
 会うなり抱き締めたい衝動に駆られるのをどうにか堪え、鴆は笑みを浮かべた。
「早かったじゃねえか」
 かけられた第一声は意外なもので、鴆は首を傾げた。もう、宵の口とは言えない時間だ。できればもう少し早く来たかったくらいだが、急患があって手が離せなかった。
 遅いと詰られるのであれば睦言にも聞こえるが、早いと言われるのは、たとえそこに他意がなかろうと、少し寂しい気がする。
「早いってこたぁねぇだろ。何の話だ?」
「返礼に行った先で、捕まってるもんだと思ってたからな」
 廊下に上がってくると、リクオは鴆を軽く小突き、口の端を上げて見せた。
「うちでも皆が早く来ねえかと騒いでたぜ。たいした色男ぶりだな、鴆」
 これは、あるいはやきもちというやつだろうかと一瞬期待しかけるが、どうもそういう雰囲気とはほど遠く、リクオは屈託なく笑っている。いつのまにか番頭の言うことに踊らされている気がしなくもなく、鴆は小さく顔をしかめた。
「抜かせ。皆、普段と違う行事が好きなだけだろ。二月のときと同じことだ。……別にそれ自体は悪かねえが」
「そういうもんか?」
 無造作に返せば、リクオはなおも、からかうように片眉を上げてみせる。
「だいたい、返礼に出てるのはうちの番頭だ。あいつはこういう仕切りは卒なくやるし、オレは余計な真似をせず本家にだけ行ってろと」
「ああ、容易に想像がつくな」
 おかしげに口元を崩して、リクオが笑う。手にした一升瓶を掲げてみせれば、頷いて視線で促された。肩を並べて、リクオの自室へと向かう。
「そうは言っても、うちでもいろいろ聞かされたぜ。どうせ薬師一派から返礼を受けるなら、伝来の秘薬がいい、とか」
「はあ?」
 リクオの言葉に、思わず大きな声が出た。
 左手には、一緒に呑もうと持ってきた一升瓶。そしてそれを持つ手の袂には、件の秘薬が忍ばせてある。
 ご丁寧に砂糖掛けされたそれはまるで金平糖で、懐紙に包まれていればただの砂糖菓子にしか見えない。一月前にリクオがしたように、舌に含んで口付ければ、相手に呑ませることは難しくないだろう。どうすればそんな状況に至れるかは別として。あるいは、その後のことさえ考えなければ。
 まさか見透かされたわけではと思いつつ隣を窺うが、リクオは他意のない様子で笑みを返してくる。
「不老の薬だとか、気になる相手の気を惹く香だとか」
「……ああ、」
 秘かに胸を撫で下ろして、鴆は肩を竦めてみせた。それは別段、いまに始まった噂ではない。リクオも信じているわけではないだろう。
「ったく、どう考えたって胡散臭ェだろう。言ってる奴らだって本気じゃねえよ」
 さらに胡散臭い薬を袂に入れたまま、鴆は殊更に溜め息をついた。
「だいたい、オレに何か言ってきたヤツぁいた例しがないぜ? 訊かれりゃあ、んなもんないって言ってやるんだが、」
 リクオから面白がるような視線を返されて、力みすぎたかとひやりとする。後ろめたさのせいで要らないことまで口走ってしまいそうだと、秘かに己を戒めた。
「……それに、今の話だと別にオレが歓迎されてるって話じゃねぇじゃねえか」
「そういやそうだな。いや、んなわけねぇんだが、おかしいな」
 吹き出したリクオに安堵して、鴆も表情が緩む。リクオが自室の襖を開けると、中には既に酒器の用意がなされていた。
「まあとにかく、ゆっくり呑めるなら何よりだ」
 振り返ったリクオが、極上の笑みを浮かべる。
 二人きりの時のみ見せるその笑みは、幾度見たところで見惚れてしまう。自分とリクオのことにあれこれ口を挟む番頭も所詮このリクオを見ていないのだと思えば、わけもなく勝ち誇った気分になった。けれど同時に、リクオが屈託なく笑ってくれるほど、袂の中がどうしようもなく意識され、勝手知ったる部屋だというのに落ち着かない。
「こっちにもらうぜ」
 酒を受け取って、リクオはそれを酒器の脇へと置く。そうして振り向き、両の手で鴆の頬を包んだ。
 不意打ちの所作に、ただされるがままリクオの掌を感じる。いつから庭に出ていたのか、その指先は冷たかった。覆うように掌を重ねれば、リクオの目元が笑む。
「……こんな冷たい手ェしやがって、」
 冷えた膚は温めてやりたいのが当たり前で、鴆は被せた掌に力を込めた。
 遅いと思っていたと言いながら、リクオはずっと桜の上で待っていてくれたのだろう。昂揚する気持ちに身体も自ずと熱を帯びる。間近に見つめた相手も気持ちは同じだと思えば、何を憚る必要もない。
 リクオの項へと手を伸ばし、口付ける。急く想いのまま食むように唇をなぞれば、待ちかねた素振りで綻んだ。差し入れた舌がリクオのそれと絡んで、愛しさに眩む心地を味わう。
「……んっ……、……」
 リクオの両手が鴆の首へとまわされる。その口からは既に色めいた吐息が零れて、鴆の身の内を撫で上げた。舌を吸い、口腔を嬲れば、縋ってくる手の力も強くなる。目の前の情人のすべてが欲しくて、舌先を幾度も絡め合わせた。
「……ん、んっ……、……っん……」
 ひとたび離れたリクオの顎を、再度捉えて、唇を奪う。奪うのも奪われるのも違いはなくて、ただ、熱を与え合うだけだ。息を荒くしているのは互いに同じ。存分に相手の吐息を貪って、ようやく鴆はリクオを解放した。
 目元を染めたリクオが、酔いにも似たまなざしを返してくる。そこに欲情を認めて、鴆は満足気に口の端を上げた。
「待たせて悪かったな、リクオ」
 思わせぶりに眸を細めれば、リクオの頬の朱が強くなる。
「……わかってるなら構わねぇよ」
 低く呟いて、鴆の腕を抜けたリクオは身を返した。無造作な口調はかえって恥じらいを聞かせ、リクオの心情を率直に伝える。
 ここに至って、鴆の昨日からの心づもりはすべて雲散霧消した。
 目の前のリクオを抱き締めたい。
 ただ、リクオがいればいい。それだけで十分なのだから、手練手管を弄する必要などないのだ。
 番頭が勝手を言うのは、結局のところ自分たちの絆の強さに想像が及ばないからに過ぎない。
「リクオ、」
 その背を捕まえ、後ろから抱き締めた。力を込めれば、腕の中に捉えた身体は素直に鴆へと身を預けてくる。髪から首筋へと唇で触れ、身じろぐリクオを感じた。
「……鴆、」
 ただ呼ばれるだけのことが、なぜこんなに気持ちを締め付けるのか。
「リクオ、」
 待ちきれない想いが、声からも余裕を奪う。前へとまわした手にリクオが触れてきて、相手の気持ちも逸るばかりと知れた。頬を、顎を、先触れめかして指でなぞれば、応えるように腕へと縋られる。
 耳朶を舐って、柔らかな膚を味わう。控えめに肩が震えて、リクオが微かに首を傾げた。恥じらって退こうとしたのだろう所作はかえって白い膚を晒し、鴆を貪欲にする。早く感じるリクオが見たいと、尖らせた舌で耳殻を擽った。
「……っ、鴆……」
 思惑通り零された吐息は少し掠れて、そろそろ自制も限界だった。
「……なあ、リクオ、」
 ねだる声音で呼べば、リクオも応えるように鴆の袖を掴んだ。首筋に顔を埋めながら、やはり想いは同じだと胸の内で笑む。
 このまま押し倒してしまおうと抱く腕を強くした、そのとき。
 袖を引かれ、リクオが己の袂を手繰った気配に、全身から血の気が引く。
「!」
 気が付けば、すっかり失念していた袂の懐紙を、リクオが袖越しに手にしていた。
「……うわあああっっっっっっっ!」


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